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瀬尾健

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

瀬尾 健(せお たけし、1940年11月14日 - 1994年6月5日)は、日本の工学者理学博士京都大学1977年)、最終職歴は京都大学原子炉実験所(現:京都大学複合原子力科学研究所)計測装置部門助手(現助教)であった[1]熊取六人衆の一人。

略歴

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来歴・人物

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1940年(昭和15年)11月14日兵庫県神戸市に生まれる[1]

1959年(昭和34年)3月、大阪府立高津高等学校を卒業、翌1960年(昭和35年)4月、京都大学工学部原子核工学科に入学する[1]。1964年(昭和39年)3月、同大学同学科卒業、同年4月、京都大学大学院工学研究科原子核専攻修士課程に入学する[1]

1966年(昭和41年)3月、同大学院同課程修了、工学修士の学位を取得、同年4月、京都大学原子炉実験所計測装置部門助手(現在の職階では助教)となる[1]。この職階は、在職中に亡くなるまで変わらなかった[1]。1977年(昭和52年)5月、同大学理学博士号を取得する[1]

1983年(昭和58年)1月、ドイツのユーリッヒにある核物理研究所に客員研究員として赴任、1984年(昭和59年)3月に任期を終えて京都大学に戻る[1]。同年11月、1979年(昭和49年)3月28日に起きたスリーマイル島原子力発電所事故に関して、アメリカ合衆国フィラデルフィアの研究会で招待講演を行う[1]。1986年(昭和61年)5月、女川原子力発電所の差し止め訴訟に証人として出廷する[1]

1990年(平成2年)8月、1986年4月26日に起きたチェルノブイリ原子力発電所事故の調査を、1か月間、ソビエト連邦(1991年崩壊)ウクライナチェルノブイリで行う[1]。1992年(平成4年)2月、著書『チェルノブイリ旅日記』を刊行する[1]。1993年(平成5年)11月には、再び、独立後のウクライナのチェルノブイリに1か月間の現地調査に向かう[1]

1994年(平成6年)6月5日、肺癌で死去する[1]。満53歳没。翌1995年(平成7年)6月、著書『原発事故…その時、あなたは!』が没後出版される。同書には、原発事故に際しての「屋内退避」についてのマニュアルを付録した。瀬尾が提唱した屋内退避の要領は、小出裕章の著書『原発のウソ』にも転載されている。なお彼は、原子力事故プログラムメインフレームOKITAC5090用に開発。それを誰にでも使えるようにとMS-DOS版への移植を果たした。現在このプログラムは、小出裕章が彼の意思を引き継ぎ、アップデートを継続中。

ビブリオグラフィ

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国立国会図書館蔵書のリストである[2]

  • 『KURRI-TR 136~144』、京都大学原子炉実験所、1975年8月 - 1976年1月
  • 『チェルノブイリ旅日記』、風媒社、1992年7月
  • 『原発事故…その時、あなたは!』、風媒社、1995年6月 ISBN 4833110385
  • 『完全シミュレーション 原発事故の恐怖』、風媒社(風媒社ブックレット 3)、2000年1月 ISBN 4833154021 - 『原発事故…その時、あなたは!』の改訂

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「瀬尾健さん略歴」、『瀬尾さんの思い出』、京都大学、1995年。
  2. ^ 国立国会図書館蔵書検索の結果、2011年5月24日閲覧。

参考文献

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関連事項

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外部リンク

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