渡辺競
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時代 | 平安時代末期 |
---|---|
生誕 | 不明 |
死没 | 治承4年(1180年) |
別名 | 源三、滝口大夫 |
官位 | 左衛門尉 |
主君 | 源頼政 |
氏族 | 嵯峨源氏流渡辺氏 |
父母 |
渡辺昇(渡辺満の子?)? 渡辺省? |
兄弟 | 健(濯の父)?、競?、総?、治? |
子 | 馴(奥州渡辺氏(島ヶ原渡辺氏)の祖?) |
特記 事項 | 唱の兄とする説あり(『前賢故実』)。 |
渡辺 競(わたなべ の きおう/きそう)は、平安時代末期の武将。源頼政の家臣。
略歴
[編集]右馬允・渡辺昇(渡辺満の子?)、あるいは渡辺播磨次郎省の子と伝わる。
父祖以来摂津源氏の郎党である渡辺氏の一族として、源頼政の忠実な臣下として行動し、保元元年(1156年)の保元の乱などにおいて頼政に従い出陣したことが見える。治承4年(1180年)の以仁王の挙兵にあたっては、当初偽って敵方の平宗盛に投降し、その愛馬『南鐐』を奪って頼政の元に参陣。その際、先立って頼政の嫡男・仲綱が愛馬のことで宗盛に辱めを受けていたことの報復として、馬のたてがみと尾の毛をそり、尻に「昔は何両、今は平宗盛入道」の焼印をして突き返し、宗盛を激怒せしめたという逸話が知られる(『平家物語』四・競)。必ず競を生け捕りにせよとの宗盛の指令にもかかわらず、宇治平等院において奮戦の末に自害した。
異説としては、伊賀国阿拝郡島ヶ原村に逃れ、その子孫が「島ヶ原渡辺氏」あるいは、「島ヶ原党」を名乗ったとされる。家紋は三星下一文字を同じくした。また、子・馴(なつく)[1]の後裔も奥州相馬氏の家臣となった奥州渡辺氏(島ヶ原渡辺氏)を初めとして、その子孫を後世に伝えたとされる。
その人物像については、『源平盛衰記』14・「三位入道入寺事」に、「弓矢取りては並敵もなく、心も剛に謀もいみじかりけるが、而も王城第一の美男なり」と描写されている。