櫻倶楽部事件
櫻倶楽部事件(さくらクラブじけん)は、1943年9月から1945年9月にかけて日本軍の占領統治下にあったオランダ領東インドのジャワ島・バタビアの慰安所「櫻倶楽部」で、同施設の日本人経営者とその妻のヨーロッパ系女性らが、シデン抑留所を含むバタビアやその周辺都市から徴募したオランダ系を中心としたヨーロッパ系の女性・少女に対して、売春を強制していた事件。1946年にオランダ軍バタビア法廷で日本人経営者が禁固10年に処せられた[1]。
事件
[編集]慰安所の開設
[編集]1943年6月2日にバタビアで「あけぼの食堂」を経営していた日本人の青地鷲雄[2]は、軍政監部から、バタビアのホルニング(Horning)通りに慰安所[3]を開設するように指示を受け、同棲していたヨーロッパ人女性のリース・ベールホルストらとともにその開設・運営を行うことになった[4]。慰安所に付随してレストランとバーも設置され、これらの施設を「櫻倶楽部」と総称した[5][6]。
「櫻倶楽部」は1943年9月10日に開店し、1945年9月に日本の降伏により閉店するまで営業していた[7]。
慰安婦の募集と売春の強要
[編集]慰安所の開設・運営にあたっては、主にリース・ベールホルストがユーラシアンを含むヨーロッパ系の女性の募集・雇入れや日常の施設運営を行っており、青地は、施設の長として雇用を決定し、帳簿付けや軍政監部との連絡、物品の買付けなどに従事していたが、日常的な施設運営にはタッチしていなかった[8]。
リース・ベールホルストや櫻倶楽部のヨーロッパ人女性従業員たちは、バタビアのシデン抑留所や、スマラン、バンドン、ジョグジャ、サラティガなどのバタビア以外のジャワ島の都市へも赴き、売春をさせる女性を募集した[9]。青地は、櫻倶楽部の女性従業員とともに、バタビア以外の都市での募集を行った[10]。
募集に応じた女性の中には、自発的に就職を希望した女性もいた[11]。しかし、最低賃金の50ギルダーを得るためには1晩に3人の客と寝なくてはならないなど仕事の内容は苛酷で、辞めたいと申し出ると、殴打されたり、憲兵に連れていかれると脅されたりしたため、自由に仕事を辞めることはできず[12]、実際に慰安所を脱走して憲兵隊に捕まり1週間ほど監禁されたり、辞職を申し出てたところ他の女性を煽動したとして「政治情報部」に逮捕され、刑務所へ送られ収監された例もあった[13]。雇用された慰安婦の氏名は憲兵隊に通知され、憲兵隊は2-3ヵ月に1度施設を視察していた[14]。
1943年7-9月にシデン抑留所で募集に応じた女性たちは、募集時には、「櫻倶楽部にはサービス・ガールの仕事と売春の仕事があるが、彼女たちが就くのはサービス・ガールの仕事であり、売春をする必要はない」と説明を受け、抑留所生活での生活苦から、収入を得るため就職を申し出たが、実際には就職して間もなく日本人への売春を強要された[15]。
また1944年3-4月にスマランから徴集された女性・少女たちは、「バタビアのレストランで給仕をする仕事だ」と説明を受け、当初応じるつもりはなかったが、「徴募を拒否すると『政治情報部』ないし警察に捕まり、外海諸島に送られる」と脅されたため募集に応じ、就職後間もなく売春を強要された[16]。
櫻倶楽部で働いていた看護婦は、慰安婦として働いていた女性たちは、前借りをしていることも多く、辞めることは困難だったこと、また12歳や14歳の少女も働いていたと証言している[17]。
日本側の資料から
[編集]終戦から9年後の1954年、当時を知る朝日新聞記者らによって編まれた『秘録大東亜戦史 蘭印編』は、「ジャワの日本人」先覚者として、青地鷲雄を詳述する。
朝日記者河合政によれば、青地は大正期から夫婦でジャワに渡り、日本人相手のホテルを経営した。困窮する日本人には、1,2ヵ月でも無料で泊まらせ、激励しては仕事を世話した。インドネシア語はもとより、オランダ語も英語も流暢であったため、日本人の裁判には通訳を務めた。
青地が企画担当者として再び蘭印に渡った時は、既にホテル業は割込む隙もなく、仕方なく海軍の勧めで慰安所を引き受けた。必要な女性は抑留所から希望者を募り、未成年者は断って、いちいち契約書に署名させていた。
ところが敗戦を機に、青地は抑留中のオランダや混血の女性を誘拐して、軍相手の慰安婦にしたということで逮捕され、戦犯として軍事裁判に掛けられた。裁判では、希望して働いたはずの女は被害者として証言し、青地が甘言をもって誘惑し未成年者までも強制したとされ、無期を判決された。判決から数日後に獄中で死亡しているのが発見された。
慰安所で働いていた女たちも決して青地を憎んでいなかったらしい。女たちは青地を罪におとさねば、自分たちの生きる道がなかったのである、と河合は記す。[18]
戦犯裁判
[編集]起訴
[編集]青地は1946年4月13日に拘禁され、同年9月28日にバタビア臨時軍法会議の審判に付託された[19]。
公判は同年10月21日から行われ[19]、青地は、1943年9月頃から1945年9月頃までの間、日本の民間人のために開設された「櫻倶楽部」の経営者として、雇い入れた女性や少女に、憲兵の介入を示唆して直接・間接的に脅迫し、また外出を制限するなどして、売春を強要したことが戦争犯罪にあたるとして起訴された[20]。求刑は15年の有期刑[21]。
公判
[編集]公判で青地は、慰安婦たちは17歳以上で、募集にあたり仕事の内容について充分に説明を受けており、自らの判断で契約を解除できたと主張した[22]。また慰安婦を雇用したときに憲兵隊にその氏名を通知していたものの、青地自身は募集や辞職の申し出があったときの引き止めのために暴力や脅しを用いたことはなく[23]、リース・ベールホルストらも、自分を介さずに憲兵を呼ぶことはできなかったから、そのような脅迫をしたとは思えない、と主張した[24]。
これに対して、「櫻倶楽部」で慰安婦として働いていた複数の女性が、
- 募集に際してサービス・ガールとしての仕事だと説明され、売春する必要はないと説明されたが、実際には売春を強要されたこと
- 募集を拒否すると警察に捕らえられ、外海諸島に送ると脅迫された例があったこと
- 募集への応募を自発的に行っていても、仕事の内容は苛酷で、売春を拒否したり、辞職を申し出たりすると、殴られたり、憲兵の介入を示唆して脅迫されたりしたこと
- 実際に脱走して憲兵に捕らえられたり、辞職を申し出て政治情報部に捕らえられ、刑務所に収監された例があったこと
- 17歳未満(12-16歳)の少女も働かされており、当初サービス・ガールやバーの店員として雇い入れられたとしても、最終的には売春をさせられていたこと
などを証言した[25]。
判決
[編集]1946年11月15日に[26]、裁判所は、被告人は否定しているものの、被害者の証言から、慰安婦として働いていた女性たちは「櫻倶楽部」を自由意志で離れることを許されず、憲兵隊の介入は口先だけの脅しでなく、実際に憲兵隊に拘引された事例があったことを認め、脅迫は主としてリース・ベルホルストによってなされたものであるが、被告人は施設の最高責任者であり、憲兵は被告人の要請に応じて慰安婦に関する苦情に対応していたし、リース・ベルホルストは被告人と同棲している彼の部下であったから、彼女が慰安婦たちをどう扱っていたか知っていたはずであり、また指示を与えていたことは確実だ、として「売春の強制」に関する青地の責任を認定し[27]、禁固10年の判決を下した[28]。
靖国合祀
[編集]青地は服役中の1946年12月27日に病死した[29]。青地は民間人だったが、受刑・服役中に死亡したため、「法務服役者」として靖国神社に合祀された[30]。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ この記事の主な出典は、内海 (2007)、バタビア法廷判決 (2007)、山本 & ホートン (1999, pp. 118–120)、オランダ政府 (1994, pp. 50–51)、茶園 (1992, p. 84)および河合 (1953)。
- ^ 青地は、長崎県の生まれで1920年に(バタビア法廷判決 2007, p. 20。河合 1953, pp. 48–49では「1921年頃に」)、夫婦でジャワ島に渡り、バタビアのモーレンフリート街で日本人相手のホテルを経営していた(河合 1953, pp. 48–49)。青地はインドネシア語、オランダ語、英語を話し、バタビアの裁判所で日本人の犯罪人が裁かれる際には通訳を委嘱されていた(同)。太平洋戦争開戦直前の1941年11月30日に日本へ帰国したが(バタビア法廷判決 2007, p. 20。河合 1953, pp. 48–49では、開戦直後に帰国した、としている)、日本軍のジャワ島占領後、政府から(バタビア法廷判決 2007, p. 20。河合 1953, pp. 48–49では「陸軍から企業担当者として」)ジャワに戻るよう命令され、1942年6月に(バタビア法廷判決 2007, p. 20)、妻女を郷里の長崎に残してバタビアに戻り(河合 1953, pp. 48–49)、バタビア市長「さくもと」らの要請を受けてノールトウェイク2番地に「あけぼの食堂」を開店した(バタビア法廷判決 2007, p. 20)。あけぼの食堂は誰でも出入りできる女性の給仕とサービス・ガールのいるレストランで、女給たちは夜11時まで勤務した後は、自由に過ごすという店だった(バタビア法廷判決 2007, p. 20、青地の証言による。河合 1953, pp. 48–49は、青地はホテルを経営しようとしたが、既に軍との特殊関係を持つ日本人が進出していて参入の余地がなく、日本人相手のレストランを開業したが、これもうまくいかなかった、としている。)。
- ^ 編注:出典によっては「売春宿」・「売春婦」と記しているが、「慰安所」・「慰安婦」で統一した。以下同じ。
- ^ バタビア法廷判決 (2007, p. 21)、青地の証言による。山本 & ホートン (1999, p. 119)およびヒックス (1995, p. 139)では、バタビア市長の命令で、オランダ政府 (1994, pp. 50–51)では、バタビア駐留の陸軍少佐の指示で、河合 (1953, pp. 48–49)では海軍からの指示で、設置したとしている。
- ^ 「ガン・ホーニング(Gang Horning)慰安所」、「サクラバー」とも呼ばれていた(山本 & ホートン 1999, pp. 118–120)。
- ^ 青地の戦犯裁判での証言では、利用を許可されたのは日本人民間人だけだった、としているが(バタビア法廷判決 2007, p. 21)、河合 (1953, pp. 48–49)では「日本海軍の専用慰安所」で、海軍にも責任があったのに青地1人が責任を負うことになった、としている。
- ^ バタビア法廷判決 (2007, p. 21)、青地の証言による。オランダ政府 (1994, pp. 50–51)では、1943年6月に開店した、としている。
- ^ バタビア法廷判決 (2007, p. 21)、山本 & ホートン (1999, p. 119)。山本 & ホートン (1999, p. 119)は、オランダ政府調査報告書(オランダ政府 1994)が、このヨーロッパ人女性の果たした役割への言及を避けている、と指摘している。
- ^ バタビア法廷判決 (2007, pp. 22–26)、山本 & ホートン (1999, p. 119)。
- ^ バタビア法廷判決 (2007, p. 22)、青地の証言による。山本 & ホートン (1999, p. 119)
- ^ バタビア法廷判決 2007, pp. 22–24では、7人の女性が自発的に募集に応じたと証言している。また青地は、櫻倶楽部で働いていた女性のうち何人かは、売春の経験者だったと証言している(バタビア法廷判決 2007, p. 22)
- ^ バタビア法廷判決 2007, pp. 22–24、被害者・関係者の証言1,3-8。オランダ政府 (1994, pp. 50–51)。
- ^ バタビア法廷判決 2007, p. 22,24、被害者・関係者の証言1,9。オランダ政府 (1994, pp. 50–51)
- ^ バタビア法廷判決 2007, p. 22.
- ^ バタビア法廷判決 (2007, pp. 22–25)、被害者・関係者の証言2,9-10。オランダ政府 (1994, pp. 50–51)。
- ^ バタビア法廷判決 (2007, pp. 25–26)、被害者・関係者の証言12-14。
- ^ バタビア法廷判決 2007, p. 25、被害者・関係者の証言11。
- ^ p.48-49 河合政『秘録大東亜戦史 蘭印編』富士書房
- ^ a b 内海 2007, p. 19.
- ^ バタビア法廷判決 2007, p. 20.
- ^ 茶園 1992, pp. 84.
- ^ バタビア法廷判決 (2007, pp. 21–22)
- ^ 慰安婦を殴ったことはあったが、売春を強制するためではなかった、と証言した(バタビア法廷判決 2007, p. 22)。
- ^ バタビア法廷判決 (2007, p. 22)
- ^ バタビア法廷判決 (2007, pp. 22–26)
- ^ 内海 (2007, p. 19)、バタビア法廷判決 (2007, p. 27)。茶園 (1992, pp. 84)では、判決日は同月26日としている。
- ^ バタビア法廷判決 2007, p. 26.
- ^ 内海 (2007, p. 19)、バタビア法廷判決 (2007, p. 27)。河合 (1953, pp. 48–49)では無期刑だったとしている。
- ^ 茶園 (1992, p. 84)。河合 (1953, pp. 48–49)では、青地は判決の数日後に死亡し、死因は衝撃の激しさから・病死などと伝えられたが多くの人は自殺だと思っている、としているが、茶園 (1992, p. 84)によれば病死は判決の約1ヶ月後。
- ^ 内海 (2007, p. 19)。2007年4月に国立国会図書館がまとめた『新編 靖国神社問題資料集』により明らかになった(同)。
参考文献
[編集]- 内海, 愛子「【解説】『櫻倶楽部』事件の背景」『季刊戦争責任研究』第56号、日本の戦争責任資料センター、2007年6月15日、18-19頁。
- バタビア法廷判決「『櫻倶楽部事件』判決文」『季刊戦争責任研究』第56号、日本の戦争責任資料センター、2007年6月15日、19-27頁。
- 山本, まゆみ、ホートン, ウィリアム・ブラッドリー(著)、(財)女性のためのアジア平和国民基金「慰安婦」関係資料委員会(編)「日本占領下インドネシアにおける慰安婦−オランダ公文書館調査報告−」(pdf)『「慰安婦」問題調査報告・1999』、(財)女性のためのアジア平和国民基金、1999年、107-141頁。
- オランダ政府「日本占領下蘭領東インドにおけるオランダ人女性に対する強制売春に関するオランダ政府所蔵文書調査報告」『季刊戦争責任研究』第4号、日本の戦争責任資料センター、1994年6月25日、46-58頁。
- 茶園, 義男『BC級戦犯和蘭裁判資料・全巻通覧』不二出版、1992年。
- 河合, 政(著)、田村吉雄(編)「ジャワの日本人」『秘録大東亜戦史・蘭印編』、富士書苑、1953年、26-50頁。