樋口敬七郎
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樋口 敬七郎 | |
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生誕 |
1893年11月22日 日本 佐賀県唐津市 |
死没 | 1971年12月4日(78歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1915 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
樋口 敬七郎(ひぐち けいしちろう、1893年(明治26年)11月22日 - 1971年(昭和46年)12月4日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]佐賀県唐津市出身。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業。同年12月、陸軍歩兵少尉に任官。1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した。
1931年(昭和6年)8月、陸士教官から関東軍独立守備隊参謀に転出、翌月、満州事変が勃発した。1934年(昭和9年)8月、陸大教官に発令された。1938年(昭和13年)7月、歩兵大佐に昇進。1939年(昭和14年)11月、第3師団参謀長に就任し日中戦争に出征。南支那方面軍参謀副長を経て、第23軍参謀副長となり、1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた。
開戦後、香港の戦いに参加。1942年(昭和17年)2月、台湾軍参謀長となり、次いで久留米第一陸軍予備士官学校長に発令された。1945年(昭和20年)3月、陸軍中将に進み、翌月、第156師団長に着任し、宮崎県本庄で本土決戦に備える中で終戦を迎えた。
戦後、戦犯容疑により逮捕され香港に連行されたが、1947年(昭和22年)6月に不起訴となり釈放された。同年11月28日、公職追放仮指定を受けた[1]。その後、故郷の唐津で生活し、唐津市選挙管理委員会委員長も務めた。
親族
[編集]著書
[編集]- 『戦国武将の俤』琢磨社、1931年。
- 『日本古来名将の戦略及統帥の観察』陸軍大学校将校集会所、1941年。
脚注
[編集]- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」21頁。
参考文献
[編集]- 樋口大成『師団長だった父と私 - ある若者が生きた昭和のドラマ』学習研究社、2002年。ISBN 4054016995
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。