望月盛時
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 文亀4年/永正元年(1504年) |
死没 | 永禄4年9月10日(1561年10月18日)[1] |
改名 | 駒若丸(幼名)、盛時、印月斎栄伝(法名)[2] |
戒名 | 鑑光院心安宗伝大禅定門[3] |
官位 | 相模守[3]、遠江守[4] |
氏族 | 望月氏 |
父母 | 父:望月盛昌? |
妻 | 相木政信の娘[5]、望月千代女[6] |
子 | 望月信雅室[7]? |
望月 盛時(もちづき もりとき)は、戦国時代の武将。武田氏の家臣。甲斐・信濃の巫女頭とされる望月千代女が妻と伝わる[6]。信濃国の国人・望月氏の当主とされるが[3]、当時の当主として確認できるのは望月信雅である[8]。
概要
[編集]望月氏は信濃国佐久郡の国衆[8]。盛時は望月盛昌[注釈 1]の子とも[3]、武田信玄の甥ともいわれる[6]。
天文14年(1545年)4月、甲斐国の戦国大名・武田晴信(信玄)から真田幸隆を使者として送られ武田氏の配下となり、太刀や馬を贈られた[9]。望月一族が武田氏に降ったことにより、佐久郡の諸将もこれに降った[9]。
永禄4年(1561年)、盛時は第四次川中島合戦に参陣し、上杉軍の簗田外記の槍に突かれ戦死した[10]。享年58歳[11]。
大草家所蔵系図によると、盛時の跡は武田信繁の子の望月信雅が継いだという[7]。なお、確かな史料に見える望月信雅は天文18年(1549年)に望月氏の惣領職を与えられた人物の名であり、この信雅が信繁の子の信頼や信永を養子としている[8]。
脚注
[編集]注釈
[編集]脚注
[編集]- ^ 金井 & 望月 1969, p. 93.
- ^ 金井 & 望月 1969, pp. 23, 88–89.
- ^ a b c d 金井 & 望月 1969, p. 23.
- ^ 金井 & 望月 1969, pp. 88–89.
- ^ 金井 & 望月 1969, pp. 23, 88.
- ^ a b c 中山太郎『日本巫女史』大岡山書店、1930年、707頁。全国書誌番号:47015045。
- ^ a b 金井 & 望月 1969, pp. 23, 93–94.
- ^ a b c 柴辻俊六; 平山優; 黒田基樹 ほか 編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年、658–660頁。ISBN 978-4-490-10860-6。
- ^ a b c 金井 & 望月 1969, p. 88.
- ^ 金井 & 望月 1969, pp. 92–93.
- ^ 金井 & 望月 1969, pp. 23, 93.