望月千代女

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

望月 千代女(もちづき ちよめ、もちづき ちよじょ)は、望月 千代女房、あるいは望月 千代は、信濃国望月城主望月盛時の妻、信濃国の滋野氏の末裔で、戦国時代における信濃巫の巫女頭とされる人物である。福田:p289 通俗書では女忍者と説明されることもあるが、この説の初出は時代考証家の稲垣史生が著した『考証日本史』(1971年、人物往来社、当時)である吉丸17:p282

概要[編集]

望月千代の名前が知られるようになったのは、中山太郎の『日本巫女史』(大岡山書店、1930年)で、「千代女房」なる巫女が甲斐と信濃の両国の神女頭に任じられたという趣旨の記述がある中山

より詳しい話が、福田晃の『神道集説話の成立』(三弥井書店、1984年)に載っている。長野県小県郡にあった禰津村に伝わる文書に、武田信玄が川中島の合戦で死んだ甥・望月盛時(印月斎)の後妻・千代女を甲斐信濃二国の神子頭に任じ、旧縁を頼って禰津村に移住した千代女が両国の巫女を支配したことが村の由来と書かれているという。また、信濃巫の宰領の家筋である篠原家には、信玄が1569年に千代女房に与えた朱印状も伝わっているという話も同書にある福田:p289

「くノ一」説[編集]

歴史考証家の稲垣史生は、仮にも武将の妻が、巫女のような低い身分と直接関わることは考えにくいことを根拠に、前述の自著において、禰津村の巫女たちはくノ一であり、武田家のために各地で情報収集を行ったという仮説を説いた。 望月千代女の名が広まったきっかけは1991年の歴史読本臨時増刊号『決定版「忍者」の全て』で名和弓雄が千代女の伝記と称する2ページの記事を載せたことによる吉丸17:p285。(この雑誌の同号では丹野史良も千代女について述べている吉丸17:p285)。なお、この記事において名和は千代女が上忍であった旨を述べているが、そもそも忍びの者には「上忍・中忍・下忍」という名称の階層区分は存在しない吉丸17:p285

稲垣の主張[編集]

稲垣の『考証日本史』において、千代女の記述があるのは第13章「武田信玄と巫女村」である吉丸17:p282。稲垣は同章で

  • 第4次川中島の合戦の局所戦を詳細に述べ、
  • 望月千代女の夫とされる望月盛時がそこで討ち死にし、
  • 望月盛時が討ち死後、武田信玄が千代女に朱印状(免許状)を渡し、それが巫女村が生まれた機縁になり、
  • 巫女達は諜報活動をし、
  • 望月千代女も影で忍者として活動した

としている吉丸17:p282

史実[編集]

稲垣の著書の同章の内容も大部分が憶測だけで書かれており吉丸17:p282、実際には、

  • 2017年現在、信玄の免許状は所在不明である吉丸17:p284
  • そもそも第4次川中島の合戦の局所戦を詳細に述べた文献は存在しない吉丸17:p282
  • 望月盛時の名前は、禰津村に伝わるという文書に基づくものである。福田:p289だが、望月盛時はこの合戦では討ち死していない吉丸17:p284
  • 巫女が諜報活動をしたというのは憶測に過ぎない吉丸17:p284
  • 前述した中山による種本にも「女忍者」、「忍び」といった言葉は登場せず、全て稲垣の憶測である吉丸17:p284

である。ただし、福田晃の『神道集説話の成立』には『日本巫女史』よりも詳しい情報が記載されている。福田:p289

なお、本項の旧バージョンには千代女が色香で男を惑わして情報収集した旨が書いてあったが[1]吉丸17:p284、中山や稲垣の本にすらそのような事は書かれていない吉丸17:p284

文献[編集]

参考文献[編集]