望月千代女

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望月 千代女(もちづき ちよめ、もちづき ちよじょ、生没年不詳)、望月 千代女房、あるいは望月 千代は、信濃国望月城望月盛時の妻、信濃国の滋野氏の末裔で、戦国時代における信濃巫の巫女頭とされる人物である[1]

歴史解説書などでは、甲斐武田家に仕える「くノ一」の頭領として紹介されることが多い。

概要[編集]

長野県小県郡にあった禰津村に伝わる「連判堅之事」によれば、武田信玄が川中島の合戦で死んだ甥・望月盛時(印月斎)の後妻・千代女を甲斐信濃二国の神子頭に任じ、旧縁を頼って禰津村に移住した千代女が両国の巫女を支配したことが村の由来と書かれている。また、信濃巫の宰領の家筋である篠原家には、信玄が1569年に千代女房に与えた朱印状も伝わっているという[2]

ただし、望月盛時は実際には信玄の甥ではない。また、印月斎という号は、盛時の息子の望月信雅のものだった。そのため、盛時の兄・望月昌頼の孫娘と信玄の弟・武田信繁の間に生まれ、望月氏の養子となった望月信頼との混同などの説があるようだ[3]

禰津村(現在の長野県東御市祢津)には、巫女の家が並んだののう小路や墓が残っている。

「くノ一」説[編集]

歴史考証家の稲垣史生は、仮にも武将の妻が、巫女のような低い身分と直接関わることは考えにくいことを根拠に、自著の「武田信玄と巫女村」という記事において、禰津村の巫女たちはくノ一であり、武田家のために各地で情報収集を行ったという仮説を説いた[4]

この仮説は、1991年12月に刊行された歴史読本臨時増刊『決定版「忍者」のすべて』のいくつかの記事によってさらに脚色・敷衍され[5]、以下のような内容の望月千代女像が広まるに至った。

甲賀流忍者を構成する甲賀五十三家の筆頭である上忍の家柄 「甲賀望月氏」の出身で、甲賀望月氏の本家に当たる信濃豪族の望月氏当主であり、武田信玄の甥に当たる望月盛時に嫁入りした。

第4次川中島の戦いで夫が討死し、若くして未亡人となったが、くノ一としての腕を買われ、武田信玄の命にて甲斐信濃巫女の統帥「甲斐信濃二国巫女頭領」を任され、「歩き巫女」の養成を行うため、信州小県郡祢津村(現長野県東御市祢津)の古御館に「甲斐信濃巫女道」の修練道場を開いたという。

戦乱の世で、孤児や捨て子となった少女達数百人(200 - 300人)を集め、呪術や祈祷から忍術、護身術の他、相手が男性だった時の為に色香(性技等)で男を惑わし情報収集する方法などを教え、諸国を往来できるよう巫女としての修業も積ませた。一人前となった巫女達は「ののう」と呼ばれて全国各地に送りこまれ、彼女達から知り得た情報を集め武田信玄に伝えたと言われており、武田家の情報収集に大きな役割を果したとされる。

外部リンク[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 中山太郎 『日本巫女史』 国書刊行会2012年6月ISBN 978-4336054937 
  2. ^ 福田晃 『神道集説話の成立』 三弥井書店1984年1月ISBN 978-4838230143 
  3. ^ 森瀬繚 『ゲームシナリオのための戦国事典』 SBクリエイティブ2016年1月30日ISBN 978-4797369755 
  4. ^ 稲垣史生 『考証日本史』 河出書房新社1984年1月ISBN 978-4309470610 
  5. ^ 山田雄司; 吉村雄哉 『考証日本史』 勉誠出版2017年3月27日ISBN 978-4585221517