有川矢九郎

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有川 矢九郎(ありかわ やくろう、1831年10月19日天保2年9月14日[1] - 1908年明治41年)10月3日[1])は、幕末から明治時代の薩摩藩士、実業家である。実名は貞實[1]。有川矢九郎とも記された[2]。有川彌九郎は、別人である。

生涯[編集]

薩摩藩海軍に入る。元治元年(1864年)に[要出典]「胡蝶丸」の艦長、のち薩摩藩海軍軍艦の蒸気船「三邦丸」艦長を務めた[3]西郷隆盛遠島や帰還した際には「胡蝶丸」や「三邦丸」で送迎した[3]坂本龍馬が妻と新婚旅行で薩摩に旅だった際は「三邦丸」で立ち会っている[要出典]

薩英戦争では談合役(参謀)として指揮を執る。勝海舟フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトなどとも交流があった。[要出典]アーネスト・サトウの日記においては、1865年慶応元年)の箇所に以下のような記述がある。

十一月十二日(陰暦九月二十四日)今朝シーボルトとふたりで薩摩藩の汽船胡蝶丸をたずねた。船長は有川矢九郎という男で、非常に愛想がよかった。これから大阪へ出かけるところだといい、わたしを脇へ呼んで(以下略) — 萩原延壽『遠い崖―――アーネスト・サトウ日記抄3(英国策論)』朝日新聞出版〈朝日文庫〉、119-120頁。 

「三邦丸」は西郷や大久保利通らを京都に送迎した船でもあった[4]

戊辰戦争当時は船奉行として藩兵の輸送を担当した[1]

1872年以降、三邦丸の払い下げを受け、大蔵省から貸与された船も用いて海運業を興し[5]、1877年の台湾出兵に際しては兵員輸送に従事した[1]。主に台湾[5]フィリピンなどと交易し、実業家としても成功した。このほか、鹿児島県庁生産会社掛にも勤めた経歴を持つ[6]

遠戚にあたる岩山八郎太直温の二女である糸子を西郷隆盛の妻として紹介した。西郷隆盛の撰文または書になる漢文碑は7基あり、その一つとして1874年9月下旬に揮毫した「有川矢九郎頌徳碑」がある(現在は西郷南洲顕彰館の敷地に移設)[7]

鹿児島市山下町にあった有川宅の果樹園では柑橘類が栽培されており、1891年(明治24年)に柑橘類の品種の一つである「三月蜜柑」が発見されている[6]。これを記録した文書によると、有川はこの樹木を桜島から大金を投じて移植したという[6]。1914年7月11日(大正3年)、旧制鹿児島高等農林学校の成績優秀者を記念する第3回植樹には、有川邸に植えてあったコルクガシの大樹を校庭に移植したが、その後、枯れた[2]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 有川矢九郎 - デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク
  2. ^ a b 上村 文「鹿児島高等農林学校の得業記念植樹」『鹿児島大学総合博物館ニュースレター』第42号、2018年3月、4-5頁。 
  3. ^ a b 南日本新聞社 編『鹿児島百年』 (上)幕末編』m、兼光社、1968年、114-123頁。 
  4. ^ 南日本新聞社 編『鹿児島百年』 (中)幕末編、兼光社、1967年。 
  5. ^ a b 吳密察 (2013-12). “114, 129”. 牡丹社事件與 Chas. W. Le Gendre(李仙得)相關日文資料調查研究 結案報告書. 國立臺灣歷史博物館. 台灣二十一世紀文化協會 
    • 「37. 林大佐ヨリ有川矢九郎(有川彌九郎は別人。)申立高砂社寮二艘預方云云往復」明治7年~明治8年頃、資料番号:A03030364500、画像4点。『114. 単行書・処蕃始末・甲戌十二月之一』第八十三冊、資料番号:A03030360900、国立公文書館、請求記号:単 00677100。
    • 「4. 旧都督府ヘ有川矢九郎(有川彌九郎は、別人)所持三邦丸石炭代取賄并条約書回付ニ付往復」資料番号: A03030416500、画像2点。『129. 単行書・処蕃始末・乙亥二月之一』第九十八冊、資料番号:A03030416200、国立公文書館、請求記号:単 00692100。
  6. ^ a b c 花木宏直「近代日本の旧城下町における武家の庭の役割 : 柑橘栽培の近代化との関わりに注目して」『琉球大学教育学部紀要』第86号、琉球大学教育学部、2015年2月、15-25頁、CRID 1050574201783356416hdl:20.500.12000/31935ISSN 1345-3319 
  7. ^ 『敬天愛人』第10号特別号、財団法人西郷南洲顕彰会、1992年9月24日、286-289頁。 

関連文献[編集]