昭南忠霊塔

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現在ブキット・バトクの丘に残る参道跡の階段とその中央に設置されている記念碑
地図
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昭南忠霊塔(しょうなんちゅうれいとう)は、1942年10月に、シンガポールを占領していた日本軍が、市内のブキット・バトク英語版に建立した忠霊塔。連合軍の捕虜を使役して参道が設けられ、日本軍の占領期間中は「忠霊塔参拝」が励行された。1945年8月の日本軍降伏後に取り壊された[1]

建立[編集]

1942年2月15日に英軍が降服してシンガポール攻略戦が終わり、日本軍(第25軍)がシンガポールを占領すると、第25軍司令官の山下奉文中将は、シンガポール最大の激戦地となり、日英双方に多くの犠牲者を出したブキテマ高地を「武威山」と命名、マレー作戦およびシンガポール攻略戦で戦死した3,500柱の英霊を慰めるため、同高地に山下が自ら設計した忠霊塔が建設されることになった[2]

忠霊塔の建立は、昭南神社と同じく、当初は横山部隊(第15独立工兵連隊)、後に田村部隊(工兵第5連隊)が担当し[3]、1942年5月頃から数週間かけて、連合軍の捕虜を使役して、ブキット・バトク英語版の丘の上に至る参道が建設された[4][5][6][7][8]ブキテマ街道英語版から丘の頂上まで百数十段の石の階段が3段にわたって作られた[9]

忠霊塔は同年9月に竣工し、9月10日に除幕式が行なわれた[10][11]第25軍軍政顧問徳川義親は、マライ各州のスルタンから忠霊塔建設のための寄付金を徴収し、除幕式の後、同月13日にジョホール州のスルタンから5,000円、翌10月9日にケダ州のスルタンから5,000円を受領した[10]

忠霊塔は、先端を円錐状の銅で覆った高さ12メートルの木造の塔だった[12]。塔の北側には高さ約3メートルの十字架標が建てられ、連合軍戦死者の霊を弔った[13]

参拝[編集]

日本軍の占領期間中には東方遥拝とあわせて「忠霊塔参拝」が励行された[14]。1943年1月20日に開催された「サルタン会同」[15]の前には、マラヤ・スマトラ各州のスルタンによる忠霊塔への基金献納、忠霊塔参拝が行われた[16]。また祝日に日本人や現地の人々が訪れたり、マラソンのゴールになったりした[9]

破壊[編集]

篠崎 (1976, p. 205)は、1945年8月18日に第7方面軍司令官板垣征四郎大将から麾下の部隊長、軍政監部および市政庁の部科長以上に日本の降伏が告げられると、翌日以降忠霊塔や昭南神社の爆破、破壊が行われたとしている。

サイレンバーグ (1988, pp. 212–213)は、忠霊塔は解放後に進駐してきたグルカ兵によって最初にダイナマイトで爆破された、としている [17]

現況[編集]

2012年現在、ブキット・バトクの丘の上には参道とそこに続く階段が残されており、階段を上がったところに記念碑が設置されている[18]

脚注[編集]

  1. ^ この文章の主な出典は、アジアエックス (2012)リー (2007, p. 102)、エドワーズ 1992, pp. 64–71、サイレンバーグ (1988, pp. 212–213)、二松 (1987, pp. 78–81)および篠崎 (1976, pp. 210–212)。
  2. ^ 篠崎 1976, pp. 210–212。サイレンバーグ (1988, pp. 212–213)・二松 (1987, p. 79)でも「ブキテマの丘の上」とされているが、リー (2007, p. 102)およびアジアエックス (2012)では建立場所は「ブキット・バトク」ないし「ブキバト」とされている。アジアエックス (2012)では「慰霊塔に収められていた戦死兵たちの灰は日本人墓地に移された」としているが、篠崎 (1976, pp. 211–212)では、戦死者の遺骨は1942年2月20日に行われた(総山 1983, p. 146)合同慰霊祭の後に日本に送られており、忠霊塔には遺骨は収められていない、としている。
  3. ^ 二松 (1987, pp. 78–81)。横山部隊は「乾季が終わろうとする頃」にインパール作戦参加のためビルマへ転進し、交代で田村部隊が着任した(二松 1987, p. 79)。
  4. ^ リー 2007, p. 102.
  5. ^ エドワーズ 1992, pp. 64–71.
  6. ^ サイレンバーグ 1988, pp. 212–213.
  7. ^ 二松 (1987, pp. 78–81)。横山部隊の下士官や兵士は捕虜に対して高圧的に接し日常的に平手打ちなどの暴力を振るったが、田村部隊の将兵は横山部隊よりも捕虜に暖かく親切に接したため捕虜に感謝されたとされる(二松 1987, pp. 78–81、エドワーズ 1992, p. 71)。
  8. ^ 篠崎 1976, pp. 210–212.
  9. ^ a b 篠崎 1976, p. 211.
  10. ^ a b 小田部 1988, p. 149.
  11. ^ 二松 (1987, p. 80)は、同年10月に昭南神社とともに竣工した、としている。
  12. ^ アジアエックス (2012)篠崎 (1976, p. 135)によると、檜の円柱。
  13. ^ アジアエックス (2012)二松 (1987, p. 80)、篠崎 (1976, p. 211)。篠崎 (1976, p. 211)では、使役されていた捕虜は十字架を見て初めて作業の意味を知った、としているが、アジアエックス (2012)によると、ブキット・バトクの記念碑には、捕虜たちが日本軍の許可を得て連合軍戦死将兵のための慰霊塔を建てた、と記されている。また二松 (1987, p. 80)では、十字架標の建立は田村部隊の頃の出来事とされている。
  14. ^ 洪 (1986, p. 195)。『日本軍が降伏した後、これらの連中は、まるで悪夢を見ているようだった。いつまでも「東京遥拝」「忠霊塔参拝」をつづけ、大東亜共栄圏のご利益にあずかろうと望むならば、それはまさに大久保が言ったように、「馬鹿どもが寝言をいっているようなもので、哀れなほど愚かなこと」なのだ』(同)。
  15. ^ 第25軍軍政監部がマラヤ・スマトラのスルタンをシンガポールに招いて会議を開き、スルタンの回教の首長としての地位・尊厳と財産所有権を公式に承認した(小田部 1988, pp. 150–151)。
  16. ^ 小田部 1988, p. 151.
  17. ^ リー (2007, p. 102)は、日本軍降伏後、解放軍によって取り壊された、としている
  18. ^ アジアエックス (2012)篠崎 (1976, p. 212)では、石段は取り除かれて、頂上まで自動車で登れるようになっている、としている。

参考文献[編集]

  • アジアエックス (2012年11月19日). “昭南忠霊塔跡地を訪ねて Bukit Batok Memorial 日本軍のシンガポール占領から70年”. JBPress. 2015年10月26日閲覧。
  • リー, ギョクボイ 著、越田稜 訳、シンガポール・ヘリテージ・ソサイエティ 編『日本のシンガポール占領-証言=「昭南島」の3年半』凱風社、2007年。ISBN 9784773631029 
  • エドワーズ, ジャック 著、薙野慎二・川島めぐみ 訳『くたばれ、ジャップ野郎!−日本軍の捕虜になったイギリス兵の記録』径書房、1992年7月10日。ISBN 4770501102 
  • 小田部, 雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年。ISBN 4250880192 
  • サイレンバーグ, ジョン・バートラム・グァン『思い出のシンガポール‐光の日々と影の日々』幻想社、1988年。ISBN 4874680550 
  • 二松, 慶彦「昭南島の頃」『「南十字星」創刊20周年記念復刻版』、シンガポール日本人会、1987年6月、74-82頁。 
    • Geoffrey Pharaoh Adams (1976). No time for geishas. Leo Cooper London からの抄訳(二松 1987, pp. 75)
  • 洪, 錦棠 (1986). 許雲樵・蔡史君(原編)田中宏・福永平和(編訳). ed. “1 奇々怪々なその政治”. 日本軍占領下のシンガポール (青木書店): 186-204. 
  • 総山, 孝雄『南海のあけぼの』叢文社、1983年。ISBN 4794700857 
  • 篠崎, 護『シンガポール占領秘録―戦争とその人間像』原書房、1976年。 

座標: 北緯1度21分05秒 東経103度45分58秒 / 北緯1.351447度 東経103.766008度 / 1.351447; 103.766008