日本学生会議
日本学生会議(にっぽんがくせいかいぎ、英語:Japan Student Conference、JASCO[1])は、日本の民族派学生組織。
機関紙は『無窮』(1968年『ジャスコ』創刊、1972年に「無窮」と改題、現在は廃刊)[2]。核拡散防止条約反対闘争(反核防闘争)を担った主要組織。日本の右翼・民族派としては珍しくアドルフ・ヒトラーやナチ党を高く評価していた[3]。
概要
[編集]頭山満の三男頭山秀三の指導を受けた豊田一夫が、1952年5月に愛国青年有志委員会を結成し、その行動隊として殉国青年隊を組織した。7月に頭山が交通事故で急死すると、9月に殉国青年隊を独立させ、愛国青年有志委員会は翌年9月に解散した。1954年1月、殉国青年隊(1960年4月、日本青年連盟に改称)の学生組織として全学生運動純正会が結成され、 1960年5月20日、日本学生会議に改称した[4]。
1967年、早稲田大学の山浦嘉久が議長となり、民族主義・YP体制打破を打ち出して新右翼化した[2]。「右からの革命」を志向していたとされ、「右翼の赤軍派」と仇名されることもあった[5][6]。 早稲田大学支部は「昭和維新派」として早大全共闘に参加し、「民族派全共闘」「民族派全学連」ともいわれた[5][7]。
1969年11月14日、山浦などメンバー8人が核拡散防止条約に反対して外務省国際連合局軍縮室(現・総合外交政策局軍縮不拡散・科学部)に乱入し、1971年12月には全国学協、日学同統一派などと「反核防統一戦線」を結成した[8]。また1975年2月には全国学協、一水会などと「反核防青年シムポジウム実行委員会」を組織し、「一日共闘」を実現して集会や抗議行動を行った[9]。
1970年代前半の反核防闘争においては、編集局長・牛嶋大輝(牛嶋徳太朗のペンネーム)が代表となり外務省に対する批判声明を読み上げた[7]。牛嶋は当時からファシストであり、機関紙上でナチズムやイタリアのファシズムについて論じていた[10][11]。参加した右翼民族派学生(主にJASCO・全国学協・日学同統一派の三派、青年民族派・新民族派などと自称)は、三上卓作詞の「青年日本の歌」(昭和維新の歌)を集会歌とし、日章旗と黒旗を掲げ、黒ヘル姿で大規模なデモを行った[7][12]。右翼民族派にとっての反核防闘争は、 新左翼の反安保闘争に匹敵するものだったとされる[5][7]。現在の活動は確認されていない。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 猪野健治『日本の右翼』ちくま文庫、2005年。
- 瀬戸弘幸「日の丸右翼からナチズム極右へ、そして今……。」佐藤卓己編、日本ナチ・カルチャー研究会著『ヒトラーの呪縛』飛鳥新社、2000年、p.42-49。
- 第二次『東大陸』編集部「戦後の右翼と現在」1995年。
- 千坂恭二『思想としてのファシズム』彩流社、2015年。
- 堀幸雄『最新 右翼辞典』柏書房、2006年。
- 山平重樹「闘いすんで日が暮れて…戦後民族派学生運動の軌跡」猪野健治編著『右翼民族派・総覧 平成3年=1991年版』二十一世紀書院、1990年、p.196-207。