コンテンツにスキップ

文化アパートメント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文化アパートメント
情報
用途 集合住宅
設計者 W・M・ヴォーリズ
施工 大林組
建築主 財団法人文化普及会
事業主体 財団法人文化普及会
管理運営 財団法人文化普及会
構造形式 鉄筋コンクリート造
延床面積
※837坪
状態 解体
階数 地下1階、地上5階[1]
竣工 1925(大正14)年
開館開所 1926(大正15)年
解体 1986(昭和61)年
所在地 東京都文京区元町一丁目五番地[2]
テンプレートを表示

文化アパートメント(ぶんかアパートメント)は、現在の東京都文京区にかつてあった共同住宅大正後期、森本厚吉が設立した財団法人文化普及会(文化普及會)によって建設された、日本初の洋式集合住宅である[3][4][5]

1923年(大正11年)着工[6]・1925年(大正14年)竣工[7]。1926年(大正15年)12月に開館。アパートとしては1943年(昭和18年)に閉鎖[8]され、建物はその後宿泊施設などに転用され、1986年(昭和61年)に取り壊された。

概要

[編集]

W・M・ヴォーリズによって設計され、施工は大林組。住居内はすべて純洋式。ベッド、椅子、テーブル、電話、ガス調理台、マントルピース、そして共用の施設として社交室、カフェ、食堂、店舗が用意され、エレベーター、焼却炉が備わっており、掃除・洗濯はメイドが行い、アパートよりもホテルの生活に近かった[3][7]家賃は坪当たり10円で最小の部屋は119円(11.9坪)、最大の部屋は316円(31.6坪)。光熱費は実費相当額を決めて支払うこととされていた[9]。なお、この頃の大卒サラリーマンの初任給は1月50円から60円であった[10]

第二次世界大戦後は、進駐軍将校の宿舎として使われ、その後旺文社に売却され、受験生や修学旅行生の都内宿泊施設「日本学生会館」として利用されたが、1986年(昭和61年)に老朽化のため取り壊された。跡地にはイギリス人ノーマン・フォスターによる設計のオフィスビル「センチュリータワー」(1991年竣工)が建設された。

江戸川乱歩の諸作品に登場する探偵・明智小五郎が自宅兼探偵事務所とする「開化アパート[11]」のモデルといわれる[7]

脚注

[編集]
  1. ^ 着工直前の関東大震災の影響で、四階建てに変更。昭和7年になって、増築されて当初の予定通りの五階建てになった。服部岑生著『「間取り」の世界地図 暮らしの知恵としきたり』(2006年、青春出版社、76〜82ページ)
  2. ^ 現在の文京区本郷2-2-9
  3. ^ a b 文化アパートメントの生活 日本初めてのアパートメント・ハウス”. 新渡戸文化学園. 2013年12月28日閲覧。
  4. ^ 御茶の水の文化普及会文化アパート”. 大林組. 2014年1月7日閲覧。
  5. ^ 吉野作造と建築”. 吉野作造記念館. 2014年1月7日閲覧。
  6. ^ 岩波書店編集部(編)『近代日本総合年表(第一版)』p.256(NDLJP:3449154/141)。同書では同年に「完成」としているが他の出典のとおり誤り。
  7. ^ a b c お茶の水文化アパートメント”. 一粒社ヴォーリズ建築事務所. 2022年10月24日閲覧。
  8. ^ 森本厚吉年譜”. 新渡戸文化学園. 2022年10月24日閲覧。
  9. ^ 「御茶ノ水に文化アパートが完成」『時事新報』1925年10月14日(大正ニュース事典編纂委員会 『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p.493 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  10. ^ お金のコラム集”. auじぶん銀行 (2020年7月2日). 2023年8月23日閲覧。
  11. ^ 『兇器』(昭和29年)に「采女町の開化アパートの二階へ引っ越しており、事務所兼住宅にしていた。」との記述がある。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]