拝藤聖雄
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 鳥取県境港市 |
生年月日 | 1932年6月22日 |
没年月日 | 2011年7月21日(79歳没) |
身長 体重 |
179 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1952年 |
初出場 | 1952年 |
最終出場 | 1956年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
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この表について
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拝藤 聖雄(はいどう まさお、1932年6月22日 - 2011年7月21日[1])は、鳥取県境港市出身で、近鉄パールスに在籍した元プロ野球選手(投手)である。
実弟の拝藤宣雄(‐のりお)も、元プロ野球選手(広島カープに在籍した)。
来歴・人物
[編集]境高では、1949年秋季中国大会準決勝に進むが米子東高に敗退。翌1950年夏の甲子園予選東中国大会でも準決勝に進出するが、またも米子東高に敗退し甲子園出場を逸する。米子鉄道管理局を経て、19523年に近鉄パールスへ入団。
1956年3月24日の東映フライヤーズ戦でプロ初勝利を記録した。同年は主に中継ぎとして18試合に登板。しかし公式戦ではその1勝のみで、同年オフに24歳にして現役を引退。
引退後は積水化学工業に入社し野球部監督をつとめた。1963年からは、積水化学工業のグループ企業の積水スポンジ工業(現・積水化成品工業)に転籍[2]。
2011年7月21日、慢性胸膜炎のため奈良県天理市内の病院で死去[3]。79歳没[1]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1952 | 近鉄 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 38 | 8.1 | 7 | 2 | 4 | -- | 0 | 2 | 3 | 0 | 8 | 8 | 8.00 | 1.32 |
1953 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | -- | ---- | 37 | 7.2 | 7 | 2 | 6 | -- | 0 | 1 | 1 | 0 | 7 | 6 | 6.75 | 1.70 | |
1956 | 18 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | -- | .500 | 137 | 29.1 | 42 | 4 | 9 | 0 | 2 | 17 | 2 | 0 | 27 | 22 | 6.60 | 1.74 | |
通算:3年 | 26 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | -- | -- | .500 | 212 | 45.1 | 56 | 8 | 19 | 0 | 2 | 20 | 6 | 0 | 42 | 36 | 7.04 | 1.65 |
背番号
[編集]- 21 (1952年 - 1956年)
脚注
[編集]- ^ a b “拝藤聖雄氏死去(元積水化成品工業常務)”. 時事通信 (2011年7月21日). 2011年7月22日閲覧。
- ^ “訃報:拝藤聖雄さん 79歳=元積水化成品工業常務、元プロ野球投手”. 毎日新聞 (2011年7月22日). 2011年7月22日閲覧。
- ^ “拝藤聖雄・元積水化成品工業常務が死去”. 日本経済新聞. (2011年7月21日) 2020年3月1日閲覧。