広山晴士
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名前 | ||||||
カタカナ | ヒロヤマ ハルオ | |||||
ラテン文字 | HIROYAMA Haruo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1971年6月16日(53歳) | |||||
出身地 | 愛知県 | |||||
身長 | 169cm[1] | |||||
体重 | 58kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
刈谷サッカースクール | ||||||
刈谷81FC | ||||||
静岡学園高校 | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
ジヤトコ | ||||||
1991-1992 | 読売ジュニオール | 1 | (0) | |||
1992-1993 | ヴェルディ川崎 | 0 | (0) | |||
AZUL | ||||||
LONDRINA | ||||||
通算 | 1 | (0) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
広山 晴士(ひろやま はるお、1971年6月16日 - )は、日本の元サッカー選手、フットサル選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはフォワード。
来歴
[編集]愛知県の刈谷81FCの出身で[2]、静岡学園高校では加藤正浩と同期。高校卒業後、ジヤトコサッカー部を経て、1991年に日本サッカーリーグ2部の読売ジュニオールに加入[3]。同年8月18日に行われたJSLカップ1回戦のトヨタ自動車戦で公式戦デビュー[4]。
1992年、読売ジュニオールが日本プロサッカーリーグのヴェルディ川崎のサテライトチームとして再編されたことに伴い、同クラブに加入[5]。トップチームでの出場機会はなく、1993年限りで退団した[5]。
その後はフットサル選手に転向すると、AZULやP.S.T.C LONDRINAなどでプレーし、日本のフットサル界の草分けのひとりとなった[6]。
引退後は指導者となり、1998年にesporte clubi fujisawaを設立[6]。育成年代を中心にボールコントロールや創造性を重視した指導を行うほか、宮城県の聖和学園高校や静岡県の富士市立高校などのアドバイザーを務めている[6][7]。
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1991-92 | 読売Jr | JSL2部 | 1 | 0 | |||||||
1992 | V川崎 | - | J | - | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
1993 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |||
通算 | 日本 | J | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
日本 | JSL2部 | 1 | 0 | ||||||||
総通算 | 1 | 0 |
脚注
[編集]- ^ a b 「Jリーグ・カップ登録メンバーリスト」『サッカーマガジン』 1992年10月号、ベースボール・マガジン社、87頁。
- ^ 「Human Script History Jリーグに賭ける栄光と苦悩 第49回」『サッカーダイジェスト』 1995年7月3日号、日本スポーツ企画出版社、57-59頁。
- ^ 日本サッカーリーグ編『日本サッカーリーグ・Year book '91-'92』日本サッカーリーグ、1991年、77頁。
- ^ 「日本サッカーリーグ全史」編集委員会編『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993年、201-215頁。
- ^ a b 『クラブサッカーの始祖鳥 読売クラブ〜ヴェルディの40年』東京ヴェルディフットボールクラブ、2010年、238-239頁。
- ^ a b c “サッカーは「上手く」なるから「楽しく」なる/エスポルチ藤沢のトレーニング”. COACH UNITED (2012年2月23日). 2020年11月28日閲覧。
- ^ “「ユース教授」安藤隆人の「高校サッカー新名将列伝」 by 安藤隆人”. ゲキサカ (2016年2月17日). 2020年11月28日閲覧。