山本紘
経歴
[編集]1962年、大阪工業大学機械工学科卒業[1]、卒業論文にはロータリーエンジン (RE) の設計図を描いた[3]。同年東洋工業入社、実験研究部に配属され、内燃機関燃焼研究を担当[1]。
1963年の日本グランプリよりモータースポーツ活動に専念[2][1]、以後エンジニアとして海外・国内のレースに関与し、後にレース監督まで務めた[4]。
1964年、日本グランプリにキャロル360/600で参戦[1]。1966年(マツダの海外レース初戦)[5]、1967年のシンガポールグランプリ、マカオグランプリにファミリア800と1000クーペで参戦し、いずれもクラス優勝を果たした[3]。1967年5月、ロータリーエンジン搭載1号車「コスモスポーツ」が発売され、1968年「ニュルブルクリンク84時間レース」に参戦し、総合4位入賞を果たした[1][6]。1969年、1970年と「スパ・フランコルシャン24時間レース」にR-100ファミリアロータリークーペで参戦し、総合5位に入賞[7]。山本健一RE研究部長からの“長距離耐久レースでREの性能と耐久信頼性を立証したい“という要望に対応するために、当時の欧州レースへの挑戦を中核として牽引した [8]。
1971年からは日本国内での活動に転換、マツダレースチームの指揮をとり、カペラ、サバンナで参戦した。特に、サバンナ(RX‐3)では日産・スカイラインの牙城を打ち砕く[9]と共に、1972年の日本グランプリでは表彰台独占を果たした[10]。
1973年、マスキー法対応エンジン開発のため異動[1]。一時、モータースポーツ活動から離れる[11][1]。
1987年、ユーノスコスモ開発主査[1]となり、20B型3ローターターボエンジンの開発を主導した[8][出典無効]。また、ユーノスロードスターの開発(1991年 - 1993年)についても、初代開発主査平井敏彦の離任に伴い、後任の開発主査貴島孝雄に引き継ぐまでサポートした[要出典]。
その他、マツダ理事・商品本部副本部長、プロダクト・エクセレンス・チームのリーダーを歴任し、2001年に退職した[1]。
著作
[編集]- (共著) 山本紘、竹下考、飯田幸三、木下勝之、玉野薫「走り感の意識調査による一考察」『マツダ技報』第4巻、1986年、 3-10頁、 ISSN 0288-0601。
- (監修・執筆[1]) 『大車林―自動車情報事典』三栄書房、2003年。ISBN 9784879046789。
- (監修) 『マツダ欧州レースの記録 1968-1970』監修:山本紘 協力:小早川隆治 編著:松田信也、三樹書房、2020年。ISBN 9784895227292。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n “マツダ欧州レースの記録 1968-1970 サンプル” (PDF). 三樹書房. p. 13. 2022年10月4日閲覧。
- ^ a b c 小早川隆治. “第92回 おめでとうトヨタさん! & RINKU 7 DAYレポート”. 三樹書房. 2022年10月4日閲覧。
- ^ a b c 小早川隆治. “論評12 マツダのルマン24時間レース優勝への長き道のり(その1)”. 三樹書房. 2022年10月4日閲覧。
- ^ a b 大串信 2016.
- ^ “マツダ、ロータリーエンジンで欧州レース参戦の知られざる秘話…貴重な記録の数々|連載ニュース|Business Journal”. www.biz-journal.jp. 2023年1月13日閲覧。
- ^ “「栄光のル・マン」 24時間レースとの出会い”. 朝日新聞 2022年10月4日閲覧。(要購読契約)
- ^ “第321回:スパ・フランコルシャンにロータリーの咆哮再び 2台の「マツダR100」がスパ・クラシックレースに出場”. webCG. 2022年9月24日閲覧。
- ^ a b “第114回 マツダ欧州レースの記録(1968-1970)その2|車評オンライン|M-BASE|三樹書房”. www.mikipress.com. 2023年1月13日閲覧。
- ^ 著者等紹介 - 山本綋 - 紀伊國屋書店ウェブストア
- ^ 大串信 2016, pp. 24–25.
- ^ 大串信 2016, p. 25.
参考文献
[編集]- 大串信「[特集] レーシングロータリー vs ハコスカGT-R [インタビュー] 山本紘」『Racing On』第481巻、三栄書房、2016年、22-25頁、ASIN B01BSBC02K、ASB:RON20160201。