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山本紘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

山本 紘やまもと ひろし1940年2月1日[1] – )は、東洋工業(現マツダ)の自動車技術者京都府宮津市出身[1]ユーノスコスモ主査[1][2]。元商品本部副本部長[1][2]マツダモータースポーツの生みの親の一人[3]で、レース監督まで務めた[4]

経歴

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1962年、大阪工業大学機械工学科卒業[1]、卒業論文にはロータリーエンジン (RE) の設計図を描いた[3]。同年東洋工業入社、実験研究部に配属され、内燃機関燃焼研究を担当[1]

1963年の日本グランプリよりモータースポーツ活動に専念[2][1]、以後エンジニアとして海外・国内のレースに関与し、後にレース監督まで務めた[4]

1964年、日本グランプリにキャロル360/600で参戦[1]。1966年(マツダの海外レース初戦)[5]、1967年のシンガポールグランプリ、マカオグランプリファミリア800と1000クーペで参戦し、いずれもクラス優勝を果たした[3]。1967年5月、ロータリーエンジン搭載1号車「コスモスポーツ」が発売され、1968年「ニュルブルクリンク84時間レース」に参戦し、総合4位入賞を果たした[1][6]。1969年、1970年と「スパ・フランコルシャン24時間レース」にR-100ファミリアロータリークーペで参戦し、総合5位に入賞[7]山本健一RE研究部長からの“長距離耐久レースでREの性能と耐久信頼性を立証したい“という要望に対応するために、当時の欧州レースへの挑戦を中核として牽引した [8]

1971年からは日本国内での活動に転換、マツダレースチームの指揮をとり、カペラサバンナで参戦した。特に、サバンナ(RX‐3)では日産・スカイラインの牙城を打ち砕く[9]と共に、1972年の日本グランプリでは表彰台独占を果たした[10]

1973年、マスキー法対応エンジン開発のため異動[1]。一時、モータースポーツ活動から離れる[11][1]

1987年、ユーノスコスモ開発主査[1]となり、20B型3ローターターボエンジンの開発を主導した[8][出典無効]。また、ユーノスロードスターの開発(1991年 - 1993年)についても、初代開発主査平井敏彦の離任に伴い、後任の開発主査貴島孝雄に引き継ぐまでサポートした[要出典]

その他、マツダ理事・商品本部副本部長、プロダクト・エクセレンス・チームのリーダーを歴任し、2001年に退職した[1]

著作

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  • (共著) 山本紘、竹下考、飯田幸三、木下勝之、玉野薫「走り感の意識調査による一考察」『マツダ技報』第4巻、1986年、 3-10頁、 ISSN 0288-0601
  • (監修・執筆[1]) 『大車林―自動車情報事典』三栄書房、2003年。ISBN 9784879046789
  • (監修) 『マツダ欧州レースの記録 1968-1970』監修:山本紘 協力:小早川隆治 編著:松田信也、三樹書房、2020年。ISBN 9784895227292

脚注

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参考文献

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