寺井純司

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寺井純司

寺井 純司(てらい じゅんじ、1850年6月18日嘉永3年5月9日[1])- 1917年大正6年)11月17日[2])は、明治期の政治家。勲四等

経歴[編集]

弘前藩士の子。藩校「稽古館」で国学漢学を修めたのち、藩命により箱館ロシア語を学び、1869年(明治2年)慶應義塾政治学法律学を修める。南部盛岡藩征討、箱館の乱、賊徒追討で軍功を挙げ藩主より金百を賜る。

教育面では弘前英漢学校一等教授兼幹事、小学校教員、同校長、学務委員となる[2]。政治面では土手町会議員、同学区会議員、郡町村連合会議員、同副議長、青森県会議員、同副議長、議長などとなる[2]皇典研究所委員、高等学校設置委員を務め1902年(明治35年)衆議院議員となる。

また、代言人の業務に従事し[2]陸奥日報を創刊し、その社長となり、印刷所を経営した[2]

脚注[編集]

  1. ^ 衆議院『第十八回帝国議会衆議院議員名簿』(第十八回帝国議会衆議院公報第一号附録)〔1903年〕、17頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』418頁。

参考文献[編集]