宍戸親基
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 文政10年9月17日(1827年11月6日) |
死没 | 明治19年(1886年)7月14日 |
改名 | 徳基→親基 |
別名 | 宍戸備前 |
官位 | 贈従四位 |
主君 | 毛利敬親 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 宍戸氏 |
父母 |
父:宍戸元礼 母:寛斎(二条斉敬の落胤とされる)の娘 |
兄弟 | 宍戸親基、福原親俊室 |
妻 | 正室:上田安定の娘、継室:東坊城総長の娘 |
子 | 宍戸徳裕、宍戸迪彜 |
宍戸 親基(ししど ちかもと)は、長州藩毛利家一門筆頭宍戸家当主。周防国三丘11代領主。
生涯
[編集]安政2年(1855年)、父の隠居にともない、家督を継ぐ。長州藩第13代藩主毛利慶親(のち敬親)より偏諱を賜って初名の徳基(のりもと)から親基に改名し、家老としてこれを補佐、元治元年(1864年)の四国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)では講和使節として派遣された。
慶応2年(1866年)の第2次長州征討戦争では芸州口の指揮官となり、近代的な長州藩兵を率いて江戸幕府軍を撃退した。明治維新の後、晩年は郷校徳修館で教育活動に従事した。
明治19年(1886年)7月14日死去。同藩第14代藩主毛利元徳(敬親養子)の偏諱を受けた長男の宍戸徳裕(のりひろ)が家督を相続した。
明治33年(1900年)徳裕の婿養子乙彦が、養祖父親基の明治維新への功績により、男爵に叙され華族となる。