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宋玉(そうぎょく、生没年不詳)は、戦国末期(紀元前3世紀頃)の楚の文人。屈原の弟子とも後輩ともいわれ、「屈宋」と併称される[1]。漢の韓嬰の『韓詩外伝』や、劉向の『新序』「雑事第一」および「第五」に宋玉に関する逸話が記載されている。
現在宋玉の作品として伝えられるものは、
- 『楚辞章句』の「九弁」「招魂」
- 『文選』の「高唐賦」「神女賦」「登徒子好色賦」「対楚王問」
- 『古文苑』の「笛賦」「大言賦」「小言賦」「諷賦」「釣賦」「舞賦」
また、「宋玉賦十六篇」[2]や「宋玉集三巻」[3]も作ったとされるが、これらの作品がどういう内容のものなのかは明らかではない。
- ^ 東晋の習鑿歯の『襄陽耆旧記』巻1に、「宋玉は、楚の鄢の人なり。故に宜城に宋玉の塚在り。始め屈原に事ふ。屈原は、既に放逐せられ、楚に事ふるを友の景差に求む。景差は、其の己に勝るを懼れ、之を王に言う。王以て小臣と為す」とある。
- ^ 『漢書』巻30、芸文志第10に「宋玉賦十六篇。楚人、與唐勒並時、在屈原後也。」とある。
- ^ 『隋書』巻35、志第30 経籍4に、「楚大夫宋玉集三巻」とある。