安島大次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

安島 大次郎(あじま だいじろう、明治3年1870年8月-没年不詳)は、明治時代から昭和にかけての農業指導者政治家家系安島氏福島県磐城郡窪田村の生まれ。磐城郡議会議員、福島県磐城郡窪田村議会議員。父は安島八之亟、妻は上遠野氏の出で上遠野佐平の女 ヒロ子 。子に八郎千代子イク子ツネ子林太郎がいる。

明治17年(1884年)、茨城県多賀郡大津村の中村静斎の塾に入り漢学を修めるが、6箇月で退塾し、帰郷後は農業に従事する。明治28年(1895年)、関西地方の農業を視察し、岩城郡農会委託米麦作試験担当を嘱託され継続すること2年に及び、明治34年(1899年)、福島県農事講習所修得証を受ける。明治36年(1903年)、郡農会代表者となり、翌年、稲正條植に六角定木を奨励し、磐城郡内に普及する。明治39年(1906年)耕地整理委員となり、農事視察のため、韓国を視察、普く同国の農業事情を視察し大いに得るところあり、翌年明治40年(1907年)、窪田村議会議員に当選、明治42年(1909年)、窪田信用購買組合理事組合長に推薦され、窪田村農会共進会審査長を嘱託され継続すること4年、明治44年(1911年)、福島県磐城郡議会議員に当選する。翌年明治45年(1912年)福島県農事試験場委託水稲試験担当を嘱託され、大正元年(1912年)、産業組合農村経営状況視察として埼玉県に出張する。大正2年(1913年)、福島県農会農家経済委員を嘱託され、再び窪田村議会議員に当選する。同年、石山農事講習会頭より農事講習を受け、斯業の改良発達の功績により表彰され木杯一組を受ける。

農事改良の先導者として高名となり、人柄は凛性篤実にして、慈善心に富み謹厚、公共心強く、遜譲至孝真の篤農家と称される[1][2]

脚注[編集]

  1. ^ 時事通信社『福島県人名辞典』(時事通信社、1914年)35~36頁。
  2. ^ 安島大次郎については次の資料にも見える。庄司吉之助編『福島県農業史』(福島県農業復興会議、1948年) 1頁参照。

参照文献[編集]

  • 庄司吉之助編『福島県農業史』(福島県農業復興会議、1948年) ASIN B000J8Q160
  • 時事通信社編『福島県人名辞典』(時事通信社、1914年)

関連項目[編集]