コンテンツにスキップ

宇文神挙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宇文 神挙(宇文神舉、うぶん しんきょ、532年 - 579年)は、北周軍人本貫代郡武川鎮宇文泰の族子にあたる。

経歴

[編集]

宇文顕和の子として生まれた。幼くして父が死去したため、弟の宇文慶とともに従兄の宇文深に教育された[1]557年明帝元年)、中侍上士を初任とした。明帝が外出するたびに、神挙は侍従として付きしたがった。561年保定元年)、長広県公の爵位を嗣いだ。まもなく帥都督に任じられ、大都督・使持節・車騎大将軍・儀同三司に転じ、右大夫の位を受けた。564年(保定4年)、驃騎大将軍・開府儀同三司の位に進み、小宮伯となった。566年天和元年)、右宮伯中大夫に転じ、爵位は清河郡公に進んだ。572年(天和7年)、武帝宇文護を粛清するにあたっては、神挙もその計画に参加した。同年(建徳元年)、京兆尹に転じた。574年(建徳3年)、熊州刺史として出向した。576年(建徳5年)、北斉の陸渾など5城を攻め落とした。

武帝が東征すると神挙は従軍し、并州を平定すると、并州刺史に任じられて、上開府儀同大将軍の位を加えられた。まもなく上大将軍の位を加えられて、武徳郡公に改封された。柱国大将軍に進み、東平郡公に改封された。577年(建徳6年)[2]、東寿陽県の人々が北周に反抗し、5000人を率いて并州の州城を襲うと、神挙は州兵を率いてこの反乱を鎮圧した。

578年宣政元年)、司武上大夫に転じた。武帝が北伐の軍を起こすと、神挙は原国公姫願らとともに兵を率いて五道に分かれて進軍した。武帝が雲陽に到達したとき、帝の病が重くなったため、軍を返した。幽州の盧昌期・祖英伯らが范陽に拠って北周に反抗すると、神挙は兵を率いておもむき、かれらを捕らえた。北斉の黄門侍郎の盧思道が反乱軍の中におり、処刑されるところだったが、神挙はかれを釈放して礼遇した。稽胡が北周に反抗して西河を襲撃すると、神挙は越王宇文盛とともに兵を率いて反乱を鎮圧した。突厥の騎兵が稽胡の救援に現れたため、神挙はこれを奇襲して撃破し、稽胡はこのため降伏した。神挙は并潞肆石等四州十二鎮諸軍事・并州総管となった。

神挙は武帝の信任を受けており、かつて王軌宇文孝伯らが皇太子宇文贇の短所を述べると、神挙はその意見に賛同していた。宇文贇(宣帝)が即位すると、帝は神挙の名望をうとんじて、使者を派遣して毒酒を与えた。神挙は馬邑で死去した。享年は48。

子の宇文同が後を嗣ぎ、位は儀同大将軍に上った。

脚注

[編集]
  1. ^ 周書』宇文深伝
  2. ^ 周書』武帝紀下

伝記資料

[編集]