姜成山

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姜成山
강성산
生年月日 1931年3月3日
出生地 日本の旗 日本 朝鮮 平安南道 平壌府
没年月日 2000年6月25日
死没地 中華人民共和国の旗 中国 吉林省 吉林市
出身校 金日成総合大学
モスクワ大学
所属政党 朝鮮労働党の旗 朝鮮労働党

内閣 第2次姜成山内閣
在任期間 1992年12月11日 - 1998年9月5日
1997年2月21日より洪成南が総理を代行
国家主席 金日成1994年7月8日に死去)
金正日(朝鮮民主主義人民共和国元首)

朝鮮民主主義人民共和国の旗 第4代政務院総理
内閣 第1次姜成山内閣
在任期間 1984年1月27日 - 1986年12月29日
国家主席 金日成

朝鮮民主主義人民共和国の旗 政務院第一副総理
内閣 李鐘玉内閣
在任期間 1982年8月31日 - 1984年1月27日
国家主席 金日成

朝鮮民主主義人民共和国の旗 政務院副総理
内閣 李鐘玉内閣
在任期間 1977年12月15日 - 1982年8月31日
国家主席 金日成
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姜成山
各種表記
チョソングル 강성산
漢字 姜成山
発音 カン・ソンサン
日本語読み: きょう・せいざん
ローマ字 Kang Sŏngsan
英語表記: Kang Song-san
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姜 成山(カン・ソンサン、1931年3月3日 - 2000年6月25日)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家。第4代・第7代政務院総理首相)を務めた。

経歴[編集]

北朝鮮を建国した金日成の母方の親戚(母親が金日成の実母、康盤石の姉、つまり、母方のいとこの関係)であり、父が金日成の側近姜渭連であったこともあって、早くからエリート・コースを歩む。万景台革命学院金日成総合大学で学び、チェコ工科大学モスクワ大学にも留学した。大学卒業後、1955年朝鮮労働党中央委員会組織指導部の指導員となって以来、党務および国政の要職を歴任していく。

1973年に党政治委員会委員候補(政治局員候補)となる。1977年12月15日李鐘玉内閣発足により、政務院副総理に任命される。その後、鉄道部長(閣僚)の兼務などを経て、1980年10月14日の第6回党大会で党政治局員に昇格。さらに1982年8月31日、政務院第一副総理に任命された。

1984年1月27日、政務院総理に就任。当時の北朝鮮は社会主義政策が行き詰まり、経済状況の悪化は深刻なものであった。姜成山は総理に就任すると、西側諸国との積極的な交流を主張し、経済再建に取り組んだ。総理に就任した1984年、外国企業の誘致などを目指し、当時としては画期的な合営法(合弁法)を制定するなど、経済の部分的開放を追求した[1]。しかし、この改革は必ずしも成功したとはみなされず、1986年12月29日に総理を退任。その際に党中央委員会書記局書記に任命されたが、1987年3月に党書記を解任されて咸鏡北道党委員会責任書記兼人民委員会委員長(道知事)に転出した[1][注釈 1]1990年5月、中央人民委員会委員を兼務。1991年末には管轄下の咸鏡北道羅津・先鋒地区が自由経済貿易地帯に指定されるなど、姜成山は地方にあって経済開放の先導役としての役割を果たした。咸鏡北道での実績が金日成に高く評価された姜成山は、1992年12月11日、政務院総理に復帰した。

「改革的な経済官僚」[3]として金日成の信任を受け、政務にあたっていた姜成山であったが、金正日時代になると、表立った政務を行うことはなくなり、党内序列も降下していった。金日成が死去する前は首相として重要行事で基調演説などを行ったが、金日成の死後は重要演説を行うことはほとんどなくなった[4]。党内序列は、1994年7月8日に金日成が死去した直後は序列第3位(1995年2月27日呉振宇が死去した後は第2位)であったが、1995年10月10日に開催された朝鮮労働党創建50周年の記念行事では序列第5位に下降した。以後、1996年7月8日に開催された「金日成主席死去2周年中央追慕大会」などの重要行事を欠席するようになった。姜の動静報道は1996年1月1日以降途絶え[5]1997年2月には洪成南が総理代理となり、姜は事実上失脚したものと見られた。しかし、同年4月25日の朝鮮人民軍創建65周年閲兵式に姜は序列第8位として出席し、1年4か月ぶりに公式の場に姿を現した。さらに同年7月8日に開催された「金日成主席死去3周年中央追慕大会」に序列第6位として出席した。その後、姜成山は政務院総理の地位を保ったものの、総理代理となった洪成南が事実上政務院を取り仕切った。

1998年7月26日に実施された最高人民会議第10期代議員選挙で姜成山は代議員に選出されず[3]、引退が確実となった。同年9月5日の最高人民会議第10期第1回会議で憲法が改正されて政務院が内閣に改組されると、正式に政務院総理を退く。その後も党政治局員の地位を保ったが、政治に影響を与えることはなかった。

1997年に死去したとの報道もあったが[6]、韓国側は当時、同氏の死亡を確認していなかった[7]。2021年9月の朝鮮中央通信の報道で、姜成山が2000年6月25日に死去していたことが分かった[8][9]。遺体は新美里愛国烈士陵に埋葬されている。

人物・人柄[編集]

労働党と政府の要職のほとんどを歴任した経済通で、革新的な考えの持ち主であった[1]。はっきりとものを言う剛直な人柄で、1991年から1992年にかけて北朝鮮に飢餓が発生したときには、金日成に惨憺たる農村の実態を直訴し、咸鏡北道での行政の経験にもとづく実情を金日成に説明したうえで早く手をうつべきことを進言している[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この人事は実際には左遷であり、金正日に嫌われたためであった[1]。首相の座を追われたのも金正日の仕業である[1]。金正日は「パーティー政治」という独自のスタイルによって父親の権力を自分に取り込んでいったが[2]、姜成山は彼のパーティーには招かれなかった[1]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 萩原遼『北朝鮮 金王朝の真実』祥伝社祥伝社新書〉、2012年3月。ISBN 978-4-396-11271-4 
  • 平井久志『北朝鮮の指導体制と後継―金正日から金正恩へ』岩波書店岩波現代文庫〉、2011年4月。ISBN 978-4006032166 
  • 李相哲『金正日と金正恩の正体』文藝春秋文春新書〉、2011年2月。ISBN 978-4-16-660797-6 
 朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
先代
延亨黙
政務院総理
1992年 - 1998年
次代
洪成南
(内閣総理)
先代
李鐘玉
政務院総理
1984年 - 1986年
次代
李根模
先代
朴容錫
鉄道部長
1979年 - 1982年
次代
李益淳