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奥平貞友

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奥平 貞友(おくだいら さだとも、? - 天正13年7月10日1585年8月5日))は、戦国時代の武将。

父は奥平貞直(祖父の奥平貞昌の子の説あり)。弟に奥平貞政。正室は奥平定行の娘、後室は奥平貞能の娘。子はおふう奥平貞昌室)、たつ(松平定勝室)、奥平貞由通称は久兵衛(日近久兵衛)。奥平藤左衛門家の当主。

生涯

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三河日近城主として本家奥平貞能に仕える。天文16年(1547年)に今川義元の東三河進出に功績を挙げたことで、今川氏に追われた形原松平氏の所領を得るが、翌年には今川氏から離反したとして形原を没収され、その混乱に乗じて形原松平氏の松平家広が旧領に復帰している[1]

弘治2年(1557年)には貞能と共に反今川氏の兵を挙げて、今川方に留まった貞勝と戦うが敗れる(東三忩劇)。今川義元は貞能が貞勝らによって高野山に追放されたのを受けて、貞友を処分をすることで奥平氏を許すことにしたが、処刑されるはずの貞友は逃げ延びて抵抗を続け、追放されたはずの貞能も後に赦免されるなど、今川氏による奥平氏への支配が強化された反面、首謀者たちの処分は曖昧なままに終わった[2]

元亀2年(1571年)奥平一族が武田信玄に降ると、武田方の人質として長女おふうを差し出す。天正元年(1573年)奥平一族が武田家を離反し、再び徳川家に帰参したため、人質のおふうは、三河鳳来寺口で処刑された。

天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、一族で長篠城に篭城し勝利に貢献した。戦後家康から、他の奥平一族と共に、直接その功績を賞される。また、長女おふうの犠牲を憐れんだ家康のはからいで、次女たつが、家康の弟松平定勝の正室として迎えられた。

天正13年(1585年)7月10日死去。嫡男貞由(貞重)は、父の死後叔父の奥平貞政に養われ、慶長7年(1602年)貞政と共に、奥平本家を離れて姉婿の松平定勝に仕えた。子孫は、代々伊予松山藩松平家の家老として続き、明治維新を迎える。

脚注

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  1. ^ 小川雄「戦国・豊臣大名徳川氏と形原松平氏」戦国史研究会 編『戦国期政治史論集 西国編』(岩田書院、2017年) ISBN 978-4-86602-013-6 P42-43
  2. ^ 大石泰史「今川氏と奥平氏-〈松平奥平家古文書写〉の検討を通じて」(初出:『地方史静岡』21号(静岡県立中央図書館、1993年)/所収:大石泰史 編『シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻 今川義元』(戎光祥出版、2019年6月) ISBN 978-4-86403-325-1) 2019年、P169-174.

参考文献

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  • 『松山叢談』

関連項目

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