大関増陽

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大関増陽
大関増陽像(大雄寺蔵)
時代 江戸時代後期
生誕 天明4年11月14日1784年12月25日)/天明4年11月16日1784年12月27日[1]
死没 文化11年5月2日1814年6月19日[1]
墓所 栃木県大田原市の大雄寺
官位 従五位下美作[1]
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
下野黒羽藩
氏族 大関氏
父母 父:大関増輔
兄弟 増陽弼教、ほか
正室:松平近儔
男子、増儀(次男)
養子:増業加藤泰衑八男)
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大関 増陽(おおせき ますはる)は、江戸時代後期の大名下野国黒羽藩10代藩主。

天明4年(1784年)、9代藩主・大関増輔の長男として誕生。

寛政11年(1799年)10月15日、江戸幕府11代将軍徳川家斉御目見する[1]享和2年(1802年)8月6日、父・増輔の隠居により、家督を相続する。文化2年(1805年)、鍛冶橋門番を命じられる。文化3年(1806年)、大阪加番を命じられる[1]

文化8年(1811年)11月24日、隠居し[1]、養子・増業に家督を譲る。

増陽の治世になると黒羽藩は財政が極度に悪化していたため、増陽は財政改革に乗り出した。しかし改革に失敗し、藩の保守的な家臣団から隠居を迫られた。増陽には子はいたが、重臣から養子として伊予国大洲藩加藤泰衑の八男・増業を迎えるように迫られた。これは、重臣たちが養子縁組のとき、多額の持参金をせしめるためだったと言われている。しかも、養子のほうが3歳年上という異例のものであった。

系譜[編集]

父母

正室

子女

養子

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 『大関黒羽家譜』

出典[編集]