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塚本茂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

塚本 茂(つかもと しげる、1903年明治36年)3月14日 - 1983年昭和58年)1月25日)は、昭和期の洋画家である。

年譜

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  • 1903年(明治36年)3月14日群馬県多野郡美土里村(現在の藤岡市)に生まれる。父友幸、母たつ。7人兄弟(1男6女)の第3子。
  • 1917年大正6年)14才。前橋中学校入学。在学中雑誌で、中村彝の「エロシェンコの像」の図版を見て感動、また、当時の前橋中学校の美術教師、曽根末次郎の影響を受け、画家を志す。
  • 1922年(大正11年)19才。前橋中学校卒業。東京美術学校(現在の東京藝術大学)図画部師範科入学。美校において田辺至、校外で中村彝、藤島武二牧野虎雄に師事。
  • 1924年(大正13年)21才。第5回帝展に50F「緑蔭」初入選、以来15回展まで毎回出品。そのほか在学中に新光洋画会展(新光洋画会賞受賞)、光風会展太平洋画会展(太平洋画会賞受賞)、槐樹社展(田中賞受賞)に入選および受賞。
  • 1925年(大正14年)22才。東京美術学校図画部師範科卒業。神奈川県立湘南中学校(現在の県立湘南高校)教諭となる。以降、藤沢市鵠沼在住。
  • 1926年(大正15年)23才。第7回帝展に80F「緑蔭」(前橋公園)入選。
  • 1927年(昭和2年)24才。第8回帝展に80F「緑蔭」入選。
  • 1928年(昭和3年)25才。第9回帝展に150F「緑蔭」入選。
  • 1929年(昭和4年)26才。第10回帝展に80F四角「緑蔭」。
  • 1930年(昭和5年)27才。第11回帝展に100F「青衣婦人」入選。
  • 1931年(昭和6年)28才。第12回帝展に100F「黒い背景の肖像」入選。
  • 1933年(昭和8年)30才。牧野虎雄らの旺玄社創立に参加、社員、審査委員となる。以降1941年(昭和16年)脱退するまで毎年出品。
  • 1934年(昭和9年)31才。小林多喜と結婚。第15回帝展に80F「読譜」出品。
  • 1935年(昭和10年)32才。第二部会展にF120「或る家族」を出品。
  • 1937年(昭和12年)34才。パリで開催された第8回国際美術教育会議の日本代表並びに国際素描コンクール日本予選委員として渡欧。アメリカおよびヨーロッパ各国の美術教育施設を視察(翌年帰国)。文展無鑑査に推奨される。
  • 1938年(昭和13年)35才。松坂屋銀座)で個展開催。渡欧作約100点を出品。第2回文展に「飯塚部隊長」を出品。
  • 1940年(昭和15年)37才。紀元2600年奉祝展に100M「月明」を出品。
  • 1941年(昭和16年)38才。第4回文展に50特M「富士山」を出品。旺玄社を脱退。群馬美術家協会の創立に参加。
  • 1942年(昭和17年)39才。第5回文展に60P「富士山」を出品。
  • 1943年(昭和18年)40才。第6回文展に80F「千人針を縫う」を出品。
  • 1946年(昭和21年)43才。湘南中学を退職。第1回日展に30P「P令嬢」を出品。
  • 1948年(昭和23年)45才。日展出品をやめ、無所属となる。
  • 1950年(昭和25年)47才。藤沢市美術家協会の創立に参加。審査委員となる。
  • 1955年(昭和30年)52才。藤沢市役所で藤沢在住30周年記念展開催(湘友会主催)。油彩画約200点出品。
  • 1960年(昭和35年)57才。横浜髙島屋で還暦記念展開催。
  • 1962年(昭和37年)59才。ベルリンで開催された第11回国際美術教育会議に出席のため渡欧。第5回日展に再出品80F「アミアン風景」。
  • 1971年(昭和46年)68才。第3回渡欧。
  • 1976年(昭和51年)73才。第4回渡欧。
  • 1980年(昭和55年)77才。群馬県文化功労者として清水一郎知事より表彰される。
  • 1983年(昭和58年)1月25日「急性心不全」により自宅にて79才の生涯を閉じる。
晩年の塚本茂
晩年の塚本茂
アトリエでエスキースをする塚本茂
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