加島恵太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
加島 恵太郎
かしま けいたろう
生年月日 1871年4月13日
出生地 日本の旗 日本 鳥取藩会見郡境村
(現境港市
没年月日 (1950-07-06) 1950年7月6日(79歳没)
出身校 東京物理学校修業
(現・東京理科大学
前職 加島呉服店手伝い
会社経営
所属政党 政友会

第5代境町
在任期間 1905年1月 - 1906年10月

第7代境町
在任期間 1908年11月 - 1913年11月


当選回数 2回
在任期間 1921年4月 - 1927年9月
テンプレートを表示

加島 恵太郎(かしま けいたろう、明治4年4月13日1871年5月31日) - 昭和25年(1950年7月6日)は日本実業家政治家漢詩人鳥取県西伯郡境町(第5代、7代)、境町会議員、鳥取県会議員。は洗心。

経歴[編集]

境町に生まれた[1]。加島房太郎の実弟[1]

鳥取中学から東京物理学校に学んだが、病気のため帰郷した[2]。家業の加島呉服店を手伝い、28歳で独立して隠岐汽船、境ドッグ、境電気等の会社経営に関係した[2]

2度にわたって町長をつとめたが名誉職だったので、生活の基盤は家業にあり、急用が起きると走って役場に出かけた[2]

明治38年(1905年)9月、日露戦争戦勝祝賀会を挙行、町中が沸く中を杉山校長と共に旗行列、提灯行列の先頭に立った[3]。明治39年(1906年)新築移転後の尋常小学校高等科を設立、港口浚渫、澪止工事に着手した[3]

漢詩人として[編集]

村上松村(本名:龍)の漢詩吟社「鷗社」の創立に参加、さらに大正6年(1917年)の「第二次鷗社」にも参加、大正9年(1920年)には松江の「剪淞吟社(せんしょうぎんしゃ)」に加盟して、その重要なポストである董事(とうじ)に就任した[4]

熱心な実作者であり、「山陰大詩会」では、明治41年(1908年)の第1回大会から第27回大会まで、通算20余回参加した[4]

昭和7年(1932年)漢詩集『洗心詩集』第1編を発行[5]。そのあと次々に出版を重ね、昭和18年(1943年)に第6編までを刊行した[5]。内容は多岐にわたり、その中でも新鮮な詩情にあふれる郷土賛歌が心を魅了する[5]

関連人物[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『島根鳥取名士列伝、下』二百五十四
  2. ^ a b c 『境港市史』(上巻) 昭和61年、534頁
  3. ^ a b 『境港市史』(上巻) 昭和61年、533頁
  4. ^ a b 『境港市史』(下巻) 昭和61年、295頁
  5. ^ a b c 『境港市史』(下巻) 昭和61年、296頁

参考文献[編集]

  • 『境港市史 上巻』(昭和61年 533-534頁)
  • 『境港市史 下巻』(昭和61年 295-296頁)

外部リンク[編集]