出丸橋

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右岸低水路より望む出丸橋(2022年3月)

出丸橋(でまるはし)は、埼玉県比企郡川島町大字下大屋敷の入間川に架かる冠水橋(潜水橋)である。川島町道1-11号線を通す[1]出丸冠水橋(でまるかんすいきょう)とも呼ばれる[2]

概要[編集]

現行橋は入間川の終点より5.6 kmの地点に位置する[3]橋長70.0メートル、幅員3.5メートル[1]の入間川の低水路に架かる5径間の鋼鈑桁橋の冠水橋(かんすいきょう)である。橋脚は鋼管製で桁受けはコンクリート製である。通行制限があり、幅員制限は橋の両詰に設置された標識にて2.0メートルで、橋の両入口に進入制限用の柵がある。欄干は設置されている。重量制限の標識は特にない。道幅が狭いことから片側交互通行である[2]。橋の管理者は川島町である[3][4]。かつては隣の釘無橋[5]、川越市上戸の川越橋や、狭山市のくずはき橋(現いるまがわ大橋)も冠水橋であったが、入間川で残っているのは出丸橋だけとなった。 冠水橋であるが桶川方面(樋詰橋)からの抜け道となっており[6]、対岸には川越工業団地があることもあって朝方の通勤時間帯を中心に交通量は多めである。右岸側堤防を斜めに横断する取付道路は川越市大字鹿飼に掛かる。 冠水橋なので、台風などの大雨の際は通行止めとなる事がある[7][8]

歴史[編集]

土橋の渡し[編集]

木造冠水橋の出丸橋(1965年)

かつては出丸橋の場所に「土橋の渡し」[6]と称される渡船場明治期の中頃より存在していた[9][10]。また、橋の下流側(現在の若一王子社付近)の位置には「金兵衛渡し」と称される渡船場が、いつから存在していたか定かではないが明治初期頃までに存在していた[9]。この渡船場は当時の地元有力者が桶川と川越を結ぶ交通路を想定して旧荒川の「高畠の渡し」(現樋詰橋)と共に設けたものと云う[9]。冬場の渇水期には仮橋を架設していた。この渡船場は昭和10年代に行なわれた入間川の河川改修に伴い1945年(昭和20年)頃に廃止された[9]。川島側の渡船場への道にあたり、現在の堤外地側の取付道路脇に1912年(明治45年)[注釈 1]に建立された水天宮碑があり、裏面に「土橋渡船場」と刻まれている。ここには渡し守の住居があった[9]

1945年の橋[編集]

橋は廃止された渡船の代替として戦後[11]1945年(昭和20年)頃[9][注釈 2][注釈 3]に初めて架けられた[11]。橋面は木製で横方向(進行方向に直角)に並べられ、上流側に流木除け(斜めの木材)を有する木造(木橋)の冠水橋である[11]。欄干は設置されていない。この橋は1964年(昭和39年)8月の洪水で流失した。復旧工事は冬場の渇水期を待って翌年の1965年(昭和40年)2月に着手され、同形式の橋に架けられて同4月に完了した。工事の際は工事費用の負担割合を川島村の55%、川越市の40%のほか、立地自治体ではない桶川町(現桶川市)も5%負担した。工費は約310万円であった[11]1974年(昭和49年)の台風16号の洪水でも被害に見舞われ、通行止めの措置が取られた。復旧工事が行われ、翌年2月26日開通した[11]

1982年(昭和57年)も同様の復旧工事が行なわれ、その後も増水時に流失もしくは一部損壊するなどの被害を受けて、通行止めおよび補修が度々繰り返されている[11]。この頃の橋の外見は鋼管パイプを3本並べた橋脚や、橋桁の端にパイプを立ててロープを張った簡易な欄干など樋詰橋と酷似していた[9][注釈 4]。永久橋への架け替えの陳情もされたが主要な交通路でなかったこともあり、採択基準に合致せず見送られてきた[11][2]

1995年の橋[編集]

1995年(平成7年)4月に洪水時には水没する依然として冠水橋ではあるが、従来の木造桁から堅牢な鋼製桁の橋梁に架け替えられた[11][注釈 5]。これが現在の出丸橋である。橋脚は8基から4基に減少されている。欄干も地覆からポールが立ち上がりワイヤーロープが張られたものとなっている。南側取付道路も北側取付道路同様の堤防に沿ってヘアピン状に屈曲する線形が踏襲され続け、東清掃センター東脇を通っていたが[12]、その後道路が西側に移設改修されヘアピン状から堤防を斜めに横断する線形に曲線がやや緩和されて現在に至る。

周辺[編集]

現在の直線的な入間川の流れは1680年延宝8年)に松平伊豆守信輝によって釘無橋付近から東南東方向への流れに付け替えられたものであり、元々は出丸橋が架かっている位置には入間川は流れていなかった。改修される前の入間川は橋の南方に存在する古川と称する廃河川や現在の古川排水路に沿って乱流していた[13]。なお、出丸村の名前にもなっている「出丸」とは一説ではこのあたり一帯を治めていた松平伊豆守の異名「伊豆丸」の転化と云われる。

※ 出丸堰(河川施設)は当橋付近ではなく、越辺川に架かる八幡橋のすぐ川下に所在する。この橋は木造冠水橋で、往時の出丸橋と酷似している。

隣の橋[編集]

(上流) - 落合橋 - 釘無橋 - 出丸橋 - 入間大橋 - 上江橋 - (下流)

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1927年(昭和2年)に再建されている。
  2. ^ 終戦の日の1945年(昭和20年)8月15日以降に架けられたこととなる。
  3. ^ 『荒川上流河川維持管理計画【国土交通大臣管理区間編】』107頁によると、1954年(昭和29年)設置と記されている[3]
  4. ^ 出典『入間川の水運』に樋詰橋と同様の外観に改修された出丸橋の写真が掲載されていることから、遅くとも発行日時である1987年頃までには改修されたものと思われる。
  5. ^ 町史ではこれを永久橋と記しているが、永久橋とは増水時でも水没することのない橋という意味であり、堅牢な橋という意味ではない。

出典[編集]

  1. ^ a b 川島町 橋梁長寿命化修繕計画” (PDF). 川島町役場. p. 6 (2013年2月). 2022年5月10日閲覧。
  2. ^ a b c 出丸冠水橋を視察(4月12日) - 川越市議会 大泉一夫のホームページ.2022年5月27日閲覧。
  3. ^ a b c 荒川上流河川維持管理計画【国土交通大臣管理区間編】”. 荒川上流河川事務所. p. 107 (2017年11月). 2022年6月11日閲覧。
  4. ^ インフラ長寿命化について”. 川島町役場 (2021年3月). 2022年5月10日閲覧。
  5. ^ 『川島町史 地誌編 』 340頁。
  6. ^ a b 入間川 (出丸橋の周辺) - 有限会社フカダソフト. 2022年5月10日閲覧。
  7. ^ 議会だより編集委員会「いっぱん質問 町の考えを問う」『川島町議会だより』第115号、川島町議会事務局、2016年10月25日、9-12頁、2022年5月15日閲覧 
  8. ^ 交通規制情報”. 川島町 (2015年9月9日). 2015年9月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年5月10日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g 『歴史の道調査報告書第九集 入間川の水運』 28-29頁。
  10. ^ 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 576頁。
  11. ^ a b c d e f g h 『川島町史 地誌編 』 341-342頁。
  12. ^ 外部リンク節の『今昔マップ on the web』等の過去の地形図や航空写真を参照。
  13. ^ 『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』 121頁。

参考文献[編集]

  • 川島町『川島町史 地誌編』川島町、2004年3月25日。全国書誌番号:20585132 
  • 埼玉県立さきたま資料館『歴史の道調査報告書第九集 入間川の水運』埼玉県政情報資料室、1988年3月、28-29頁。 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 11 埼玉県』角川書店、1980年7月8日。ISBN 4040011104 

関連項目[編集]

  • 樋詰橋 - 近隣の冠水橋。本橋と合わせて桶川から川越への抜け道を構成する。
  • 出丸村 - 現在の出丸地区の前身

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度57分14.28秒 東経139度30分51.65秒 / 北緯35.9539667度 東経139.5143472度 / 35.9539667; 139.5143472