入沢恭平
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入沢 恭平(入澤 恭平 いりさわ きょうへい、1831年7月18日(天保2年6月10日) - 1874年(明治7年)1月10日)は、幕末維新期の在野の洋方医教育者、陸軍軍医。
幼名は恭助、字は尊典、号は松塢。初代東京帝国大学医学部綜理(初代の東京大学医学部長に相当)である池田謙齊の兄。入沢達吉は息子[2]。
生涯
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越後国蒲原郡中之島村西野(現・新潟県長岡市)生まれ。縁戚の蘭方医竹山祐卜、森田千庵の影響で、実弟池田謙斎と共に洋方医を志す。戸塚静海、土生玄昌に蘭学を学び、1860年 (万延元年) 長崎に赴き蘭医ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトに学ぶ。帰郷後の1862年 (文久2年) から今町(現在の新潟県見附市今町)で開業の傍ら門下生に西洋医学を教える。1871年 (明治4年) 陸軍1等軍医副に任ぜられた。
1874年(明治7年)1月10日、新潟町において、脳出血のため44歳で急逝。
長崎遊学中の「日記」(入沢達吉『贈従五位入沢恭平先生日記』)がポンペ門下の状況と洋学修業旅行中の交友、動静、旅費の実情を知る上に貴重なものとなっている。
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ “長岡市入澤記念庭園”. 長岡市. 2024年7月16日閲覧。
- ^ “コトバンク・入沢恭平”. コトバンク. 2024年7月16日閲覧。