伊藤観魚
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いとう かんぎょ 伊藤 観魚 | |
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生誕 |
伊藤 銈次郎 1877年10月10日 日本愛知県愛知郡西魚町2丁目(名古屋市中区丸の内三丁目)[1] |
死没 |
1969年2月10日(91歳没) 日本名古屋市中村区日吉町稲本寮[2] |
墓地 | 光圓寺(名古屋市中川区万場二丁目)・浄国寺(海部郡大治町)[3] |
記念碑 | 凌雲寺(名古屋市中村区稲葉地本通)[4] |
国籍 | 日本 |
職業 | 俳人 |
伊藤観魚(いとうかんぎょ、1877年10月10日 - 1969年2月10日)は、愛知県名古屋市中区出身の俳人。
概要
[編集]観魚は1877年(明治10年)10月10日、愛知郡西魚町2丁目(名古屋市中区丸の内三丁目)に所在した料亭「近直」(きんなお)経営伊藤直吉の次男伊藤銈次郎として出生[1]。
1901年(明治34年)、兄の天籟とともに塩谷華園・黒部烏不関らによる句会「大根会」に入会し、同会雑誌『華大根』の編集に参加する[5]。同会の影響により、河東碧梧桐との親交を得る[5]。30歳を過ぎて、碧梧桐を頼って上京し、中村不折に洋画を学ぶ[6]。1912年(明治45年)6月、碧梧桐・不折らの「龍眠会」の設立に参画[6]。
1923年(大正12年)ごろ帰名、近直の離れに母とともに暮らすようになる[7]。
1945年(昭和20年)5月17日、空襲により、家財一切を焼失し、名古屋市東区池内本町に移住[8]。1946年(昭和21年)5月、名古屋市中川区八田本町に移った[2]。1969年(昭和44年)1月、国立名古屋病院に入院したことを機に、名古屋市中村区日吉町稲本寮に引っ越す[2]。同年2月10日、死去[2]。翌日、中村観音において葬儀が営まれ、参列者は500人と記録されている[9]。
1970年(昭和45年)2月、名古屋市中川区富田町万場の光円寺境内に祀られ、海部郡大治町浄国寺にも分骨されている[3]。またこれとは別に、名古屋市中村区稲葉地本通凌雲寺に小さな碑が残されている[4]。
1969年(昭和44年)4月、遺言に従って名古屋市中村図書館にコレクション約350冊が寄贈され、「観魚文庫」として整備される[10]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 観魚会 編『伊藤観魚遺作集』観魚会、1975年9月10日。
- 観魚会 編『観魚 拾遺』観魚会、1981年2月10日。
- 赤井達郎「観魚 その人と書」『観魚 拾遺』1981年2月10日、7-25頁。
- 名古屋市中村図書館 編『さようなら配水塔の図書館―中村図書館25年のあゆみ―』名古屋市中村図書館、1991年3月3日。