伊尹
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伊尹(いいん)は、夏末期から殷(商)初期にかけての伝説的な政治家。商の成立に大きな役割を果たしたとされる。諱は摯(し)。
生涯
[編集]伝説によれば、伊尹の母は大洪水に巻き込まれ桑の大木と化し、その幹から伊尹が生まれたという[1]。そこから伊尹は洪水神であると見る説が存在する。
成人後は料理人として有莘氏に仕え、有莘氏の娘が商の君主・子履に嫁ぐ際に、その付き人となったが、そこでその才能を子履に認められ、商の国政に参与し重きを成したとされる。
伊尹は、商が夏を滅ぼす際にも活躍し(鳴条の戦い)、商(殷)の成立に大きな役割を果たし、阿衡 (あこう)として天乙を補佐し、数百年続く商の基礎を固め、天乙の死後は、その子に当たる外丙と仲壬の二人の王を補佐したという。
天乙の孫・太甲が即位すると、伊尹は引き続きこれを補佐したが、太甲は放蕩を重ね国政を乱したので伊尹は太甲を桐 (とう)に追放し、自らは摂政としてこれに代わった。3年後、太甲が悔い改めたのを確認すると、再び彼を王に迎え自らは臣下の列に復したと伝えられる。ただし、『竹書紀年』は、伊尹は太甲を追放した後、自ら王となったが、7年後に太甲に討たれたとする。
伊尹は太甲の子・沃丁の時代に世を去ったという。子に伊陟があった[2]。
評価
[編集]後世、伊尹は名臣として評価されているが、太甲の追放の一事に関しては、臣下でありながら主君を押し込めたこと、簒奪ではないかということが議論されることになる(孟子・尽心上篇)。有力な臣下が仲の悪い主君を追放したとする見方もある。実際、太甲の追放は、前漢の霍光とともに後世、自分に都合の悪い君主を追放したい有力者が、追放の口実とすることがままあった。