阿衡事件

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阿衡事件(あこうじけん)は、平安時代前期に藤原基経宇多天皇の間で起こった政治紛争である。阿衡の紛議とも呼ばれる。基経を関白に任じる詔勅の中に「阿衡」という語があったが、それについて基経は、中国の古典では「阿衡」は名ばかりで実権のない職を指すと抗議し、一切の公務の遂行を放棄した。最終的に天皇は詔勅を撤回して、その起草者の橘広相を罷免した。広相は言いがかりであるとして抗弁したが、「阿衡」の解釈について学者らは基経に迎合した。ただし菅原道真は広相を弁護した。

経緯[編集]

この阿衡事件の基本史料は〔『政事要略』巻第30 阿衡事〕にまとめられ、『宇多天皇御記』(日記抄出)、仁和3年(887年11月21日の詔書から仁和4年(888年)11月とされる菅原道真『奉昭宣公書 菅丞相讃州刺史時』までの関係文書が収録されている[1][2]。 仁和3年(887年)11月17日臣籍降下していた源定省みなもとのさだみが藤原基経の推薦により皇太子に、次いで天皇に即位した宇多天皇(21歳)は、左大弁橘広相たちばな の ひろみに命じて、21日に基経を関白に任じる詔勅を出した[3][注 1]。基経は先例により26日に一旦辞退する[注 2]。天皇は橘広相に命じて二度目の詔勅を出した[4]。その詔勅に「宜しく阿衡の任を以て卿の任とせよ」との一文があった。阿衡は中国の代の賢臣伊尹が任じられた官であり、この故事を橘広相は引用したのである。これを文章博士藤原佐世が「阿衡は位貴くも、職掌なし(地位は高いが職務を持たない)」と基経に告げたことにより大問題となる[5]。基経は一切の政務を放棄してしまい、そのため国政が渋滞する事態に陥る。池田晃淵によれば基経は「厩馬を放散して、京中を驚かす如き、亂暴の擧動もなせしなるべし」怒りを表したという[6]。心痛した天皇は基経に丁重に了解を求めるが、確執は解けなかった。

藤原佐世が基経にこうした騒ぎの種になるようなことを言ったのは、橘広相の出世を妬んだためとする説もある[注 3]

翌仁和4年(888年)4月、天皇は左大臣源融に命じて博士らに阿衡に職掌がないか研究させた。藤原基経の威を恐れた博士らの見解は佐世と同じであった。広相はこれに反駁するが、6月2日、天皇は先の詔勅を取り消して、広相を罷免した。天皇は無念の思いを日記に記している。

基経は執拗になおも広相を遠流(おんる。島流し等の追放刑)に処すよう求める。広相の無実を知る天皇は窮するが、讃岐守菅原道真が広相の弁護にまわり、同11月これ以上紛争を続けるのは藤原氏のためにならない旨の書[7]が道真から基経に送られた。基経が怒りを収めたことにより、ようやく事件は終息した。この事件で基経は藤原氏の権力の強さを世に知らしめ、天皇は事実上の傀儡であることを証明した。

矛盾点[編集]

ところが、『日本三代実録元慶8年(884年)7月8日条によれば、同年6月7日光孝天皇から政務の要請をされた際に、一旦これを辞退した際の藤原基経の返答に「如何、責阿衡、以忍労力疾、役冢宰以侵暑冒寒乎(果たして暑さや寒さに関係なく一生懸命に職務を行なうとしても、阿衡の責任を全うできるかどうか、私にはわかりません)」という語句を含めている。問題の「阿衡」という言葉を基経自身が用いていることより、基経が本当に「阿衡」の本来の意味を知らなかったのか疑問が持たれる。また『政事要略』巻30『宇多天皇御記』仁和4年6月2日条には天皇が以前「卿従前代猶摂政焉、至朕身親如父子、宜摂政耳(そなたは前代[光孝天皇の代]から摂政です。だから親しいことは父と子に対する如く、子に当たる私にも摂政であって下さい)」と基経に伝えたことに対して基経が「謹奉命旨必能奉(謹んでご命令を承ります。必ず天皇の御意に従い奉ります)」と返答しているのに裏切られたと憤慨する記述が残されている。

瀧浪貞子は、宇多天皇が「摂政」と「関白」を同じものと誤解し、さらに「阿衡」を基経に対する敬意を示そうと用い、基経はそれらの誤用に気づかせようとしてサボタージュしていたものと結論付けている[8]

一方、佐々木宗雄は、基経の本心は「阿衡」という言葉の正否よりも、光孝天皇の時に彼に与えられていた政務の全面委任(王権代行の権限)の授与を示す言葉が宇多天皇2度の詔には明記されなかったために、天皇が自己の政治権限の削除を図っているとの反感を抱いて、光孝天皇の時と同等の権限を求めたのではないかという説を立てている[9]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 瀧浪貞子『阿衡の紛議―上皇と摂政・関白―』(『史窓』58号、2001年2月10日)p.47下段に「関白」の称はこの詔が初出であり、太政大臣あるいは摂政としての継続の意味であった可能性も指摘されている。
  2. ^ 天皇により高級官僚に任じられた者は一旦形式的にその着任を辞退し、その後天皇が改めて任じ、受諾する慣例があった。
  3. ^ 橘広相は宇多天皇の即位前に娘義子を嫁がせ、外孫が2人誕生していたが、これは基経にとって大きな障害だったということは想像に難くない。

出典[編集]

  1. ^ 古藤真平「〈共同研究報告〉『政事要略』阿衡事所引の『宇多天皇御記』―その基礎的考察―」 (『日本研究』44号、2011年) p.356下段。
  2. ^ 国立国会図書館デジタルコレクション 佐藤誠實博士(1839-1908)手校蔵本、阿波国文庫旧蔵 影印 93コマ。
  3. ^ 古藤真平「〈共同研究報告〉『政事要略』阿衡事所引の『宇多天皇御記』―その基礎的考察―」 (『日本研究』44号、2011年) p.356上段に11月21日詔書「其万機巨細、百官惣己。皆関白於太政大臣、然後奏下、一如旧事:其れ万機巨細、百官己に惣べよ。皆太政大臣にあづかまうし、然して後に奏し下すこと、一に旧事の如くせよ」とある。
  4. ^ 古藤真平「〈共同研究報告〉『政事要略』阿衡事所引の『宇多天皇御記』―その基礎的考察―」 (『日本研究』44号、2011年) p.356下段に、翌27日基経の辞表に対する勅答「宜以阿衡之任為卿之任」。
  5. ^ 古藤真平「〈共同研究報告〉『政事要略』阿衡事所引の『宇多天皇御記』―その基礎的考察―」 (『日本研究』44号、2011年)p.356下段。
  6. ^ 池田晃淵『平安朝史』早稲田大学出版部、1906年 p.258、国立国会図書館デジタルコレクション影印 135コマ目。しかし典拠は不明である。
  7. ^ 『奉昭宣公書 菅丞相讃州刺史時』日本古典文学大系 72 川口久雄 校注『菅家文草 菅家後集』岩波書店、1966年 p.622 に附載)
  8. ^ 瀧浪貞子『阿衡の紛議―上皇と摂政・関白―』(『史窓』58号、2001年2月10日) p.46-50
  9. ^ 佐々木宗雄「摂政制・関白制の成立」(『日本歴史』610号、1999年)

参考文献[編集]

  • 瀧浪貞子『阿衡の紛議―上皇と摂政・関白―』(『史窓』58号、2001年2月10日) 京都女子大学史学研究室 紀要論文
  • 佐々木宗雄『平安時代国制史研究』(校倉書房、 2001年) ISBN 978-4751732007
  • 古藤真平「〈共同研究報告〉『政事要略』阿衡事所引の『宇多天皇御記』―その基礎的考察―」 (『日本研究』44号、2011年)

関連文献[編集]

関連項目[編集]