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仁賀保誠政

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仁賀保 誠政
時代 江戸時代初期 - 前期
生誕 慶長5年(1600年)
死没 承応2年10月20日(1653年12月9日)
改名 誠政→全逸(法名)
別名 寅之助、淀吉、内膳
墓所 青松寺
幕府 江戸幕府 書院番小姓組進物番
主君 徳川家康秀忠家光家綱
氏族 仁賀保氏
父母 父:仁賀保挙誠、母:田村掃部の娘
兄弟 良俊誠政誠次本田正次室、鹿島出羽
桑山貞晴の娘
誠尚長谷川重辰
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仁賀保 誠政 (にかほ のぶまさ)は、江戸時代初期から前期にかけての旗本

経歴

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元和元年(1615年)、2代将軍・徳川秀忠に拝謁。翌年から徳川家光に仕え、書院番に列する。元和9年(1623年)、小姓組に転任、同年の日光社参に同行。寛永元年(1624年)、使者として松平忠直の配流先の豊後国府内に赴く。翌年父の遺領のうち2000石を分封、寛永9年(1632年)、進物番に転任。寛永17年(1640年)、目付に代わって府内に赴く。寛永19年(1642年)、水野勝成預かりの酒井重澄が自殺。その検死のために備後国福山に赴く。慶安元年(1648年)、再び府内に赴き、目付代を務める。

貝塚の青松寺に葬られた。子の誠尚が家督を継いだ。

系譜

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父母

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子女

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参考文献

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