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丹波重雅

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丹波 重雅
時代 平安時代中期
生誕 天慶9年(946年
死没 寛弘8年4月12日1011年5月17日
官位 従四位上典薬頭
主君 一条天皇
氏族 丹波宿禰
父母 父:丹波康頼
忠明
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丹波 重雅(たんば の しげまさ、天慶9年(946年) - 寛弘8年4月12日1011年5月17日))は平安時代中期の官人、医者。官位は従四位上典薬頭。『医心方』撰者・丹波康頼の子。

経歴

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長徳4年(998年)8月27日、従五位上医博士から医博士清原為時・針博士菅原典雅を超越して典薬頭を兼ねる[1]。『権記』は重雅が「当時の名医」であり、「一両人を越えるのは亦、例なり」と理由を述べている[2]。この典薬頭任官は丹波氏で初めてのことであり、以後丹波氏は和気氏とともに典薬頭を独占することとなる[3]

寛弘元年(1004年)5月15日、藤原道長の舌下の腫物について「重舌」と診断した[4]。2年(1005年)6月3日、藤原実資に道長の病状を説明している[5]。7年(1010年)9月2日、藤原行成痢病治した[6]。8年(1011年)4月12日、卒去。享年66歳または76歳[7]

大江匡房は重雅を一条朝の「天下の一物」の一人に挙げている[8]

逸話

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元亨釈書』「勧修」には、藤原道長の閉門謝客中に瓜が献上された際、その場にいた安倍晴明勧修、重雅が協力して、瓜の中に蛇を見出すという話がある[9]

官歴

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『続群書類従』巻184・丹波氏系図には侍従丹波権守、権針博士典薬頭左近医師、正五位下穀倉院別当、主税頭大舎人頭兵庫頭掃守頭従四位上とある[11]

系譜

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登場作品

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脚注

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  1. ^ a b 『権記』長徳4年8月27日、9月19日
  2. ^ a b 『権記』長徳4年8月27日
  3. ^ 東(2002), p. 420
  4. ^ 『御堂関白記』
  5. ^ 『小右記』
  6. ^ 『権記』
  7. ^ a b 丹波重雅』 - コトバンク
  8. ^ 続本朝往生伝』「一條院」
  9. ^ 菅原(2002), p. 33
  10. ^ 『本朝世紀』
  11. ^ 続群書類従完成会『群書系図部集』 7, 八木書店, 1973, p. 342
  12. ^ 枕草子』, 三教書院

参考文献

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関連項目

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