三橋四郎次 (2代)
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2代 三橋 四郎次(みつはし しろうじ、1879年(明治12年)8月11日[1] - 1955年(昭和30年)3月22日[2])は、日本の篤農家、実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。初名・卓[3]、号・光波子[4]。
経歴
[編集]静岡県城東郡丹野村(のち小笠郡川野村、現菊川市)で、地主・初代三橋四郎次の二男として生まれる[3][4]。1898年(明治31年)静岡県尋常中学校卒業。1901年(明治34年)東京専門学校(のちの早稲田大学)英語政治科を卒業[2]。日露戦争に見習士官として出征し、陸軍歩兵中尉に昇進した[5][6]。1906年(明治39年)家督を相続し四郎助(2代)を襲名した[3]。
政界では静岡県会議員、同参事会員を務めた[2][4][6]。1924年(大正13年)5月、第15回衆議院議員総選挙に静岡県第7区から出馬して当選し、立憲民政党に所属して衆議院議員を1期務めた[2]。また、1940年(昭和15年)静岡県多額納税者として補欠選挙で貴族院議員に互選され、同年9月11日、貴族院多額納税者議員に就任し[7][8]、同成会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[5]。
茶業界の発展改良に尽力し、小笠郡茶業組合委員、静岡県茶業連合会議所理事、同特別議員、茶業中央会議所議員、同専務理事、日本茶業会会頭、日本茶輸出組合理事長、静岡県製茶業組合長などを務めた[2][4][5]。その他、実業界では、遠州銀行監査役、日本紅茶社長、東亜製茶社長、日本紅茶販売社長などを務めた[2][5]。
著作
[編集]- 『光波子句集』三橋四郎次、1941年。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 加藤紫泉『新代議士名鑑』国民教育会、1924年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 静岡新聞社出版局編『静岡県歴史人物事典』静岡新聞社、1991年。