三刀屋宗忠
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時代 | 室町時代後期(戦国時代・安土桃山時代) |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 元亀元年6月3日(1570年7月5日)[1] |
官位 | 蔵人[1] |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 尼子晴久 → 義久(詮久)→ 勝久[1] |
氏族 | 源姓三沢氏流三刀屋氏?[1] |
三刀屋 宗忠(みとや むねただ[1])は、戦国時代の武将。尼子氏の家臣。
概要
[編集]生年は不明[1]。御手廻衆で、『尼子分限帳』によれば備中国に10,140石を領していたとされる[1]。
三刀屋久祐に代表される三刀屋氏とは別系統で、出雲飯石郡の国人・三沢氏の一族であるという[1]。
天文9年(1540年)に、尼子詮久による毛利元就が篭る吉田郡山城攻めに従軍した(吉田郡山城の戦い)[1]。
永禄9年(1566年)に毛利氏により尼子氏が滅ぼされる(月山富田城の戦い)と、上洛して尼子勝久の側近となる[1]。
元亀元年(1570年)6月3日、志道左馬助が篭る勝間城を攻めて討ち死にした[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年9月。ISBN 4-404-01752-9。