ヨハン・カスパー・ブルンチュリ
表示
ヨハン・カスパー・ブルンチュリ(Johann Caspar[1] Bluntschli、1808年3月7日 - 1881年10月21日)は、スイス及びドイツの法学者、政治家。19世紀ドイツの代表的法学者。歴史学派に属し、国法・憲法・国際法を研究した。
略歴
[編集]スイス・チューリッヒ生まれ。ベルリン大学とボン大学で学ぶ[2]。1829年、ローマ相続法研究によりボン大学法学博士取得[2][3]。
1933年、新設されたチューリッヒ大学の教員となり、1836年には正教授となる[3]。1839年、チューリッヒ州議会議員。当時のドイツ(ドイツ語圏)の急進派と保守派の双方に対抗したリベラル保守派であった[3]。
1848年、ドイツに移住し、ミュンヘン大学教授となる[2][3]。
1861年、ハイデルベルク大学教授[2][3]。1861年から1868年までバーデン大公国議会第一院議員[3]。
1868年にはドイツ関税同盟の関税議会(後の帝国議会)のバーデン州代表として選出された。国民自由党に所属した。1873年から 1876 年までバーデン議会第二院議員。
1881年、カールスルーエにて死去。
オランダ王立芸術科学アカデミーの外国人会員[4]。
人物
[編集]学説
[編集]- 国家有機体説(心理学的有機体説[5])を支持し、社会契約説を批判した[3]。また、国家主権説の立場から保守的な絶対君主制と急進的な人民主権論(国民主権論)の双方を批判した[3]。ブルンチュリの国法学理論は加藤弘之によって紹介され、日本の明治政府の正当性を弁護する役割を担った[3]。
- アーリアン学説の影響を受けた人種理論家でもあった[6]。
日本語訳
[編集]脚注
[編集]- ^ Kasparとも。
- ^ a b c d Denkwürdiges aus meinem Leben (1884)
- ^ a b c d e f g h i 小項目事典,百科事典マイペディア, 日本大百科全書(ニッポニカ),改訂新版 世界大百科事典,ブリタニカ国際大百科事典. “ブルンチュリ(ぶるんちゅり)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年3月28日閲覧。
- ^ “KNAW Past Members | Digitaal Wetenschapshistorisch Centrum” (オランダ語) (2017年1月19日). 2024年3月28日閲覧。
- ^ 「国家有機体説」『日本大百科全書(ニッポニカ)』 。コトバンクより13 April 2023閲覧。
- ^ Brigitte Geiger: Die Rassentheorie von Johann Caspar Bluntschli. In: Zürcher Taschenbuch 114 (1994). S. 143–171.
参考文献
[編集]- Denkwürdiges aus meinem Leben(自伝、1884年)