ヘンリー・サマセット (初代ウスター侯)
ヘンリー・サマセット Henry Somerset | |
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初代ウスター侯爵 | |
在位 | 1642年 - 1646年 |
称号 | 第5代ウスター伯爵 |
出生 |
1577年 |
死去 |
1646年12月18日 イングランド王国、ロンドン、コヴェント・ガーデン |
配偶者 | アン・ラッセル |
子女 |
エドワード エリザベス 他 |
家名 | サマセット家 |
父親 | 第4代ウスター伯爵エドワード・サマセット |
母親 | エリザベス |
宗教 | キリスト教カトリック |
初代ウスター侯爵ヘンリー・サマセット(Henry Somerset, 1st Marquess of Worcester, 1577年 - 1646年12月18日)は、清教徒革命(イングランド内戦)期のイングランドの貴族。第4代ウスター伯爵エドワード・サマセットとエリザベス(第2代ハンティンドン伯爵フランシス・ヘイスティングスの娘)夫妻の次男で、内戦では王党派の一員として息子のエドワード・サマセットと共に国王チャールズ1世を支援した。
生涯
[編集]1628年、父の死で第5代ウスター伯となる[1]。イングランド西部(ウェールズ南東部)のモンマスシャーを地盤とした裕福な貴族でカトリック教徒でもあり、長男のエドワードもモンマスシャーのラグラン城でカトリック教徒に育て上げた[2]。
1642年から始まった第一次イングランド内戦ではチャールズ1世に忠誠を誓い10万ポンドを供出、以後もたびたび財政援助を行い、合計30万ポンドに達したという。見返りに侯爵へ昇叙され初代ウスター侯となり、エドワードもチャールズ1世の寵臣として取り立てられた。しかしエドワードが勝手に金を使い込み、激しい口論になったこともある[3]。
1645年7月、ネイズビーの戦いに敗れたチャールズ1世を居城のラグラン城へ迎え入れたが、9月にチャールズ1世がスコットランドからモントローズ侯爵ジェイムズ・グラハムが援軍を率いて来るとの噂を信じてラグラン城から去り、残されたウスター侯はラグラン城を議会派のトマス・モーガンに包囲され、1646年に降伏した[4][5]。そして連行・投獄され、12月18日にロンドンのコヴェント・ガーデンで死亡した[1]。
子女
[編集]ジョン・ラッセルの娘アンと結婚、9男4女を儲けた。長男エドワードは爵位を継承して第2代ウスター侯となり、娘エリザベスはモンタギュー子爵フランシス・ブラウンと結婚した。
脚注
[編集]- ^ a b Lundy 2011, p. 2465 § 24647 cites Cokayne 2000, p. 857
- ^ ウェッジウッド、P73、ガーディナー、P314。
- ^ ウェッジウッド、P73、P95、P121、ガーディナー、P314 - P315。
- ^ ウェッジウッド、P480 - P481、P512 - P513、P525、P588。
- ^ “Raglan Castle and the Civil War”. Castlewales.com. October 2013閲覧。
参考文献
[編集]- シセリー・ヴェロニカ・ウェッジウッド著、瀬原義生訳『イギリス・ピューリタン革命―王の戦争―』文理閣、2015年。
- サミュエル・ローソン・ガードナー著、小野雄一訳『大内乱史Ⅱ(上):ガーディナーのピューリタン革命史』三省堂書店、2018年。
公職 | ||
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先代 ウスター伯 |
グラモーガン統監 モンマスシャー統監 共同就任者 ウスター伯:1626年 - 1628年 1626年 - 1629年 |
次代 ノーサンプトン伯 |
イングランドの爵位 | ||
爵位創設 | ウスター侯爵 1642年 - 1646年 |
次代 エドワード・サマセット |
先代 エドワード・サマセット |
ウスター伯爵 1628年 - 1646年 | |
ハーバート男爵 (繰上勅書) 1604年 - 1646年 |