フナート・ホトケーヴィチ
フナート・マルティーノヴィチ・ホトケーヴィチ (ウクライナ語: Гнат Мартинович Хоткевич, 英語 Gnat Khotkevich or Hnat Khotkevych, 1877年12月31日 - 1938年9月8日) は、ウクライナの作家、バンドゥーラ奏者、作曲家、民族誌学者、演劇学者、教育者。ホトケーヴィチは、ウクライナの文化復興運動において重要な役割を果たし、ウクライナの楽器であるバンドゥーラの普及と発展に大きく貢献した[1][2]。
ホトケーヴィチは、ソ連の大粛清の際、ウクライナの銃殺されたルネッサンスの他の多くのメンバーと同様に、KGB によって銃殺された。
生涯
[編集]幼少期と教育
[編集]ホトケーヴィチは、1877年12月31日、ロシア帝国(現在のウクライナ)ハルキウ州のハルキウ近郊の村で生まれた。幼いころから音楽の才能を示し、バンドゥーラを習い始めた。ホトケーヴィチは、ハルキウの音楽学校で学び、その後、モスクワ音楽院で作曲と指揮を学んだ。
音楽活動
[編集]ホトケーヴィチは、優れたバンドゥーラ奏者であり、作曲家だった。ウクライナの伝統音楽を基に、数多くのバンドゥーラのための作品を作曲した。ホトケーヴィチの作品は、ウクライナの人々に広く愛され、今日でも演奏されている。
ホトケーヴィチはまた、バンドゥーラの改良にも取り組み、より演奏しやすい楽器を開発した。ウクライナの各地でバンドゥーラの演奏旅行を行い、ウクライナの伝統音楽の普及に努めた[3]。
文学活動
[編集]音楽活動に加えて、ホトケーヴィチは、作家としても活動した。ホトケーヴィチは、小説、短編小説、戯曲エッセイなど、幅広いジャンルの作品を書いた。その作品は、しばしば、ウクライナの農民の生活やウクライナの文化を描いたものだった。
抑圧と死
[編集]1930年代、ホトケーヴィチは、ソビエト当局から「民族主義者」として告発され、弾圧を受け、1938年9月8日、ソ連の強制収容所で亡くなった。
遺産
[編集]ホトケーヴィチは、ウクライナの文化に多大な貢献をした人物として、広く認められている。ホトケーヴィチの音楽と文学作品は、ウクライナの人々に愛され続けており、その名前は、ウクライナの多くの音楽学校や通りに冠されている[4]。
脚注
[編集]- ^ “Khotkevych, Hnat”. www.encyclopediaofukraine.com. 2024年9月29日閲覧。
- ^ Bondar, Andriy (2023年3月12日). “The Ukrainian Polymath Whose Recognition is Long Overdue” (英語). Kyiv Post. 2024年9月29日閲覧。
- ^ News (2010年10月26日). “Hnat Khotkevych V International Ukrainian Folk Instruments Contest - The Ukrainian Canadian Congress (UCC) official website” (英語). www.ucc.ca. 2024年9月29日閲覧。
- ^ Moskvitina, Daria (2018-01-01). “Shakespeare Cut and Refashioned: The Ukrainian Translation of Hamlet Made by Hnat Khotkevych (1920s)”. Studia Litteraria Universitatis Iagellonicae Cracoviensis .