トマス・ホークス・タナー
トマス・ホークス・タナー Thomas Hawkes Tanner | |
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トマス・ホークス・タナー(1868年) | |
生誕 |
1824年7月9日 イングランド・ロンドン |
死没 |
1871年7月7日 (46歳没) イングランド・ブライトン |
国籍 | イングランド |
職業 |
医師 作家 |
トマス・ホークス・タナー(Thomas Hawkes Tanner, 1824年7月9日 - 1871年7月7日)は、イングランドの医師、作家。
生涯
[編集]1824年、陸軍軍医長官をやっていたトマス・タナー(Thomas Tanner)の息子として生まれた。チャーターハウス・スクール(Charterhouse School)に通い、同校で教育の大部分を受けた。ここである深刻な事故に遭遇し、その事故が長年に亘って彼の身体に影響を及ぼし続けた[1]。
1843年、キングス・カレッジ・ロンドン(The King's College London)にて、医学の勉強を始める。1847年、聖アンドゥルース大学(The University of St Andrews)を卒業し、医学博士の学位を取得する。
シャーロット・ストリートにて総合診療を開始し、その後まもなく、フェアリンドン・ストリートにある診療所の医師となる。1850年、王立内科医協会の一員として登録され、専門医として働き始めた[1]。1851年、ソーホー・スクウェアにある女性向けの病院の婦人科の医師として働きつつ、ウエストミンスター病院にて法医学の講義も受け持つようになる。1858年、ロンドン産科学会の設立に携わり、その参事を務める[1]。
1860年、キングス・カレッジ・ロンドンの評議会は、女性と子供の病気を担当する医療専門職に従事する人間を2人指名した。そのうちの1人にタナーが、もう1人にはアルフレッド・メドウス(Alfred Meadows)が選ばれた。だが、仕事が増えることへの精神的重圧から、タナーは1863年にこれを辞した[1]。タナーはたくさんの仕事をこなしたが、多すぎる量の仕事には対応しきれなかった。
タナーはロンドンを去り、1871年7月、ブライトンで亡くなった[1]。
タナーは医師であると同時に、多作家でもあった。1854年に出版した『A Manual of the Practice of Medicine』(『実践医療の手引書』)は、アメリカとイギリスで大いに売れた。サー・ウィリアム・ヘンリー・ブロードベントは、タナーの死後の1875年、同書の第7版および改訂版を2巻分の本として発行した。
参考
[編集]- ^ a b c d e Lee, Sidney, ed. (1898). . Dictionary of National Biography (英語). Vol. 55. London: Smith, Elder & Co.
この記事はパブリックドメインの辞典本文を含む: Lee, Sidney, ed. (1898). "Tanner, Thomas Hawkes". Dictionary of National Biography (英語). Vol. 55. London: Smith, Elder & Co.
外部リンク
[編集]- Thomas Hawkes Tannerの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
- トマス・ホークス・タナーに関連する著作物 - インターネットアーカイブ