シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯

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シュレスヴィヒおよびホルシュタイン(現在のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州

シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯(シャウエンブルクおよびホルシュタインはく)は、神聖ローマ帝国の称号の一つである。シャウエンブルク家はドイツのヴェーザー川沿いにあるリンテルン (シャウムブルク郡)の近くにあるシャウエンブルク出身で、先祖伝来の地であるビュッケブルクおよびシュタットハーゲンとともに、シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯領を統治した。ホルシュタイン伯は1296年まではザクセン公の、その後はザクセン=ラウエンブルク公の支配下にあった。

シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯[編集]

伯爵領
シャウエンブルク ホルシュタイン
肖像 治世 名前 肖像 治世 名前
1110年 - 1131年 アドルフ1世、シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯
1131年 – 1164年 アドルフ2世、シャウエンブルク伯 1131年 – 1137年 アドルフ2世、ホルシュタイン伯
1137年 – 1143年 ハインリヒ・フォン・バードヴィーデン、ホルシュタイン伯、1139年にヴァグリエンを支配
1143年 – 1164年 アドルフ2世、ホルシュタイン伯
1164年 – 1203年 アドルフ3世、シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯、監禁から解放される代償としてホルシュタインを1203年にヴァルデマー2世に譲渡
1203年 – 1225年 アドルフ3世、シャウエンブルク伯
1203年 – 1227年 ヴァルデマー2世(デンマーク王)、事実上ホルシュタインを支配
1225年 – 1227年 アドルフ4世、シャウエンブルク伯
1227年 – 1238年 アドルフ4世、シャウエンブルクおよびホルシュタイン伯(ヴァルデマー2世に戦勝)
ゲルハルト1世の印璽↑ と ヨハン1世の印璽↓
1238年 – 1261年 ゲルハルト1世およびヨハン1世
父親の死まで共同統治

ホルシュタインの分割統治(1261年 - 1273年)[編集]

1261年に、ゲルハルト1世とヨハン1世の兄弟はホルシュタイン及びシャウエンブルク(シャウムブルク)伯領を分割相続した。ゲルハルト1世はホルシュタイン=イツェホーとシャウムブルクを受け取り、ヨハン1世はホルシュタイン=キールを受け取った。ヨハン1世の死後、息子のアドルフ5世とヨハン2世はホルシュタイン=キールを共同統治した。1273年に二人はホルシュタイン=キールを分割し、ヨハン2世は引き続きキールを統治し、アドルフ5世はザーゲベルク(別名シュトルマルン)を統治した。アドルフ5世の甥アドルフ7世が継承した。1315年にアドルフ7世は男子の後継者なく死去し、ホルシュタイン=ゼーゲベルクはホルシュタイン=キールに再び統合された。

1290年のホルシュタイン分割と1350年および1390年の再併合[編集]

1290年のゲルハルト1世の死後、彼の息子たちはホルシュタイン=イツェホーおよびシャウムブルクを3つに分割した。3男のアドルフ6世はホルシュタイン=ピンネベルクとエルベ川南側のシャウムブルクを、次男のゲルハルト2世はホルシュタイン=プレンを、4男のハインリヒ1世はホルシュタイン=レンズブルクをそれぞれ得た。長男のヨハンはハンブルク大聖堂の律修司祭となった。

ゲルハルト2世の死後、息子のゲルハルト4世とその異母弟ヨハン3世(寛大伯)はホルシュタイン=プレンを共同統治した。1316年、兄弟はホルシュタイン=キールのヨハン2世(1321年没)の領地を戦により奪い、ヨハン2世の息子たちは殺された。ヨハン3世はプレン伯領を1350年に再び統治する前、父ゲルハルト2世(盲目伯)のいとこであるヨハン2世(隻眼伯)からキールを奪い取った。ゲルハルト4世はホルシュタイン=プレン全体を統治し続けた。

ヨハン3世の甥で、ゲルハルト4世のあとを継いだゲルハルト5世が1350年に死去した後、プレン伯系は断絶し、ヨハン3世が再びそれらを領した。息子のアドルフ9世(7世)[1]は、1359年よりキールとプレンを領していたが、1390年に後継者なく死去し、ニコラウスと甥のアルブレヒト2世およびゲルハルト6世(1397年まで共同統治)が、ホルシュタイン=キールおよびホルシュタイン=プレンを継いだ。

1397年のホルシュタインの分割と1459年のレンズブルク系の断絶[編集]

1390年、ホルシュタイン=レンズブルク系はキール、プレン、ゼーゲベルクを併合したが、ホルシュタイン=ピンネベルクは1640年まで独立して存続した。レンズブルク系は1390年以降はしばしば単に「ホルシュタイン伯」とも名乗った。ピンネベルク系はシャウムブルク伯領に住んだ。

1397年にニコラウスが死去した後、ホルシュタイン=レンズブルクを共治していた甥のアルブレヒト2世とゲルハルト6世は、ホルシュタイン=ゼーゲベルク(シュトルマルン伯領)をホルシュタイン=レンズブルクから分割し、アルブレヒトがレンズブルクの共治を辞退しゼーゲベルクを領した。1403年にアルブレヒトが死去した後、ゼーゲベルクはレンズブルクに戻された。1459年、アドルフ11世(8世[1]の死後、レンズブルク系は男系が断絶し、ホルシュタイン=レンズブルクとシュレーズヴィヒの貴族はアドルフの姉妹の息子であるオルデンブルク家出身のデンマーク王クリスチャン1世を後継者に選んだ。

1640年までのシャウムブルクおよびホルシュタイン=ピンネベルク[編集]

オルデンブルク家出身のデンマーク王クリスチャン1世がホルシュタイン=レンズブルク伯の後継者に選ばれ、クリスチャンは1460年に伯領を継いだ。1474年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世は、クリスチャン1世をホルシュタイン=レンズブルク伯からホルシュタイン公とした。ホルシュタイン=ピンネベルクおよびシャウムブルクのシャウエンブルク家は1640年の男系断絶まで続いた。この系統は「ホルシュタイン=シャウエンブルク」ともいわれる。シャウムブルク伯は1619/20年にシャウムブルク侯となったが、ホルシュタイン公はホルシュタイン=ピンネベルク伯の陞爵に反対した。

ホルシュタイン=ピンネベルク(1459年 – 1640年)[編集]

ホルシュタイン=ピンネベルク伯およびシャウムブルク伯
肖像 治世 名前
1426年–1464年 オットー2世
1464年–1474年 アドルフ12世(10世)[1](1419年–1474年)
1474年–1492年 エーリク(1420年–1492年)
1492年–1510年 オットー3世(1426年–1510年)
1510年–1526年 アントン(1439年–1526年)
1526年–1527年 ヨハン4世(1449年–1527年)
1527年–1531年 ヨープスト1世(1483年–1531年)
Otto's grave monument
1531年–1560年
および
1544年–1576年
ヨハン5世、1544年から弟オットー4世と共同統治(オットー3世として1531年-1537年にヒルデスハイム司教)
1576年–1601年 アドルフ14世(11世)[1](1547年–1601年)
1601年–1622年 エルンスト、1619年よりシャウムブルク侯
1622年–1635年 ヨープスト・ヘルマン(1593年–1635年)
1635年–1640年 オットー5世(1616年–1640年)

1640年のシャウムブルクの分割[編集]

オットー5世が1640年に後継者なく死去し、シャウエンブルク家によるホルシュタインの統治は終わった。ホルシュタイン=ピンネベルク伯領はデンマーク王クリスチャン4世によりホルシュタイン公国に併合された。クリスチャン4世以降についてはシュレースヴィヒとホルシュタインの統治者一覧を参照。

本来のシャウムブルク領は、シャウエンブルク家の後継者の間で3つに分割相続された。それらのうち1つはブラウンシュヴァイク=リューネブルク公領に組み込まれ、1つはシャウムブルク=リッペ伯領に、もう1つはシャウムブルク伯領として存続し、ヘッセン=カッセル方伯により同君連合の形で統治された。それら3つはすべて現在はニーダーザクセン州の一部である。ゲメン領は1531年にヨープスト1世の結婚を通して獲得し、次男のヨープスト2世(1520年頃 - 1581年、1531年より統治)が統治し、リンブルフ・シュティルム家に引き継がれた。ゲメンは今日のノルトライン=ヴェストファーレン州にある。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g シャウエンブルク家全体で名前のナンバリングがされる場合と、各分家ごとにナンバリングされる場合(括弧内)がある