カール・グーテンベルガー
カール・ミヒャエル・グーテンベルガー(Karl Michael Gutenberger, 1905年4月18日 - 1961年7月8日)は、ナチス・ドイツの親衛隊 (SS) の将軍。最終階級は親衛隊大将、警察大将及び武装親衛隊大将。
経歴
[編集]クルップ工場の倉庫管理者の息子としてエッセンに生まれる。小学校卒業後、エッセンのクルップ上級実科学校とアルテンエッセン (de:Altenessen) の実科高等学校へ通う。1921年から1年半銀行員としての研修を受けている[1]。
1923年に国家社会主義ドイツ労働者党に入党し、同時に突撃隊にも入隊する。ミュンヘン一揆の失敗によってナチ党が禁止された後は、エッセンの事業会社の社員となっている。
ナチ党再建後の1925年12月15日に再入党し(党員番号25,249)、突撃隊にも再入隊している。またエッセンの地区指導者となり1926年まで務め、エッセン大管区の演説者にもなる。また1928年から1929年までエッセン=ライン鉄工の財務官となる[1]。
1929年12月から1933年9月までにエッセン、西デュッセルドルフ、ヴェーゼルの突撃隊連隊指導者を歴任している。1932年11月24日にプロイセン州議員に当選している。1933年7月31日の選挙では選挙区23区(西デュッセルドルフ)選出の国会議員となる。1934年5月1日に突撃隊第173旅団(デュースブルク)の指導者、1935年3月1日には突撃隊第73旅団(エッセン)の指導者、1937年1月1日からは突撃隊第74旅団(ヴェーゼル)の指導者を歴任している。5月1日にデュースブルクの警察署長に就任、デュースブルクの防空指導者にもなる。1939年11月14日にエッセン警察署長に就任し、同時にエッセンの防空指導者に任じられた[2]。
1939年10月25日にOSAFに親衛隊への転属願いを出し、1940年4月9日に突撃隊を離れる。6月1日に親衛隊へ移籍(隊員番号372,03)し、親衛隊上級地区「西」の幕僚となる。1941年5月1日に親衛隊上級地区「西」指導者に就任し親衛隊及び警察高級指導者代理にも任じられる。6月29日には「西」親衛隊及び警察高級指導者に就任する[2]。
1944年8月に北リンブルフ州の公共保安委員となり、10月1日に第6軍管区の戦争捕虜責任者となる11月にはヴェアヴォルフの監察官に任命され、1945年3月25日には連合国軍に任命されたアーヘン市長フランツ・オッペンホフの暗殺に関与している[3]。
1945年3月11日にデュッセルドルフを離れるが、5月10日にイギリス軍によって逮捕される。1949年10月22日にハンブルクで英軍の裁判にかけられ、懲役12年の刑が言い渡される。1953年12月11日に釈放され、その後は卸売業者として働く。1961年7月8日にエッセンで死去した[4]。
キャリア
[編集]階級
[編集]出典[5]
- 1932年7月1日、突撃隊大佐
- 1933年11月9日、突撃隊上級大佐
- 1936年4月20日、突撃隊少将
- 1940年6月1日、親衛隊二等兵
- 1940年6月1日、親衛隊少将
- 1942年3月1日、警察少将
- 1942年11月9日、親衛隊中将及び警察中将
- 1944年7月30日、親衛隊大将
- 1944年11月16日、警察大将及び武装親衛隊大将
受章歴
[編集]出典[4]
- 鉄十字勲章
- 戦功十字章
- 二級剣無戦功十字章(1940年10月1日)
- 二級剣付戦功十字章(1941年1月30日)
- 一級剣付戦功十字章(1942年6月2日)
- 戦傷章黒章(1939年章、1943年5月20日)
- 黄金ナチ党員バッジ(1933年10月25日)
- 勤続章
- ナチ党勤続章
- 銅章(1940年4月20日)
- 銀章(1940年4月20日)
- 金章(1942年1月30日)
- ナチ党勤続章
- 大管区名誉徽章
- エッセン大管区名誉徽章
- 名誉防空勲章
- 2級(1943年2月25日)
- SAスポーツ勲章
- 銅章
- ドイツスポーツ勲章
- 銅章
- 親衛隊名誉短剣
- 親衛隊全国指導者名誉長剣(1941年1月17日)
- 親衛隊名誉リング(1933年12月24日)
- 親衛隊私服ピン(172,936番)
- 親衛隊冬至祭燭台
- 古参闘士名誉章
参考文献
[編集]- Michael D. Miller著『Leaders of the SS & German Police, Volume I』(Bender Publishing)ISBN 9329700373(英語)
- Mark C. Yerger著『Allgemeine-SS』(Schiffer Pub Ltd)(英語)ISBN 978-0764301452