オノリオ・エルメト・カルネイロ・レオン (パラナ侯爵)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パラナ侯爵オノリオ・エルメト・カルネイロ・レオン
公式肖像画
パラナ侯爵オノリオ・エルメト・カルネイロ・レオン (1856年、55歳)
閣僚評議会議長
任期
1843年1月20日 – 1844年2月2日
君主ペドロ2世
前任者なし
後任者第2代カラベラス子爵マヌエル・アルヴェス・ブランコ
任期
1853年9月6日 – 1856年9月3日
君主ペドロ2世
前任者イタボライ子爵ジョアキン・ジョゼ・ロドリゲス・トレス
後任者カシアス公爵ルイス・アルヴェス・デ・リマ・エ・シルヴァ
個人情報
生誕 (1801-01-11) 1801年1月11日
ブラジル帝国ミナスジェライス州ジャクイー
死没1856年9月3日(1856-09-03)(55歳)
ブラジル帝国リオデジャネイロ
政党
  • 自由党 (1830–1831)
  • 自由党中道派(コインブラ党) (1831–1837)
  • 自由党復帰派 (1837–c. 1843)
  • 秩序党 (c. 1843–c. 1853)
  • 保守党 (c. 1853–1856)
配偶者マリア・エンリケータ・ネート
Maria Henriqueta Neto
職業政治家
宗教ローマカトリック
署名自筆サイン

パラナ侯爵オノリオ・エルメト・カルネイロ・レオン (ポルトガル語: Honório Hermeto Carneiro Leão, Marquis of Paraná、1801年1月11日 - 1856年9月3日) はブラジル帝国の政治家、外交官、裁判官で、君主制支持者。ミナスジェライス州サン・カルロス・ド・ジャクイーの貧しい家庭に生まれ、ポルトガル本国のコインブラ大学で学んだ後ブラジルに帰国し、1826年に判事に任じられた。後には控訴裁判所の裁判官に昇任した。1830年にはミナス・ジェライス州選出の連邦議会下院議員となり、1834年・1838年にも再選されて1841年まで務めた。 1842年にはミナスジェライス州選出の連邦議会上院議員となり、1843年にはブラジル皇帝ペドロ2世から組閣を命じられた。それまでは皇帝が内閣の閣僚を指名していたが、カルネイロ・レオンは自ら閣僚を選んだことから、実質的にブラジルで初の首相となった人物とされる。1844年には皇帝と対立して辞任した。 1851年にはウルグアイに派遣され、ウルグアイ・コリエンテス州エントレ・リオス州との間でアルゼンチン連合に対抗するための同盟関係を成立させた。この功績により皇帝からパラナ侯爵に叙され、1853年には再び閣僚評議会議長に任命された。しかし在任中の1856年9月3日に原因不明の高熱を発して急死した。