アレクサンドル・ノヴィコフ
アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・ノヴィコフ(Алекса́ндр Алекса́ндрович Но́виков , Alexander Alexandrovich Novikov, 1900年11月19日 - 1976年12月3日)は、ソ連の軍人。空軍司令官。空軍総元帥。ソ連邦英雄(2度)。ロシア人。
経歴
[編集]コストロマ県ネレフツキー地区クリュコヴォ村出身。1918年に教員セミナーで教育を受け、1919年から赤軍。ロシア内戦時、前線で戦い、クロンシュタットの反乱の鎮圧に参加、その後カフカースで戦う。1920年から共産党員。
1922年、「狙撃」指揮課程を修了。1930年、M.V.フルンゼ名称軍事アカデミーを卒業。1933年3月から空軍に異動し、航空旅団参謀長、飛行隊長、軍管区空軍参謀長を歴任。冬戦争時、北西戦線空軍参謀長。
1941年の独ソ戦開始より、北部戦線、およびレニングラード戦線の主力軍の空軍司令官を務めた。1942年春から航空担当の国防人民委員代理(国防次官)、赤軍空軍司令官となる。1943年に航空元帥、1944年2月21日に航空総元帥に昇進。
最高総司令部(STAVKA)の代表として、スターリングラード及びクルスクの戦い、北カフカース、ウクライナ、白ロシア、バルト地方、ポーランドの解放作戦、ケーニヒスベルク(現在のカリーニングラード)強襲作戦 、ベルリンの戦い、そして日本の関東軍撃破において、数々の戦線の戦闘航空作戦を調整した。
戦後、1946年4月、スターリンの息子のワシーリーがソ連機よりもアメリカ機の方が優れていると愚痴をこぼした後、航空産業相A.シャフリヌイとともに逮捕された。同年5月、シュフリイヌイ、空軍軍事会議議員N.シマノフ、空軍副司令官A.レーピン、空軍発注総局長N.セレズネフ、中央委員会人事局課主任A.ブドニコフ、G.グリゴリヤン等と共に禁固刑を言い渡された。
スターリンの死後、1953年5月に恩赦され、空軍に復帰。1953年~1955年、極東航空隊司令官、1954年~1955年、空軍副総司令官を兼任。1956年から民間航空高等航空学校校長。1958年、教授。
ソ連邦英雄(2度)。他に多くの勲章やメダルを受賞。著書に「レニングラードの空で」(1970年)がある。