Wikipedia:良質な記事/良質な記事の選考/楠木正儀 20190611

楠木正儀 - ノート[編集]

選考終了日時:2019年6月25日 (火) 00:20 (UTC)2019年7月22日 (月) 00:20 (UTC)

内容的にはよく書けていると思いますが、全体的にやや荒削りな面が目立ちます。まず、要出典の記述が散見されますが、それらに関してはここでコメントするよりも手っ取り早く{{要出典範囲}}をつけておきました 差分。おそらく大幅加筆前の無出典記述が残っているものと思われます。そういう部分は、よほど重要な記述でなければ遠慮なく除去してもよいのではないかと思います。重要な記述であれば出典は容易に付けられるでしょうし。また、各節の記述についても、箇条書きでこそないものの、ほぼ箇条書きや年表に近い、時系列で出来ごとを並べただけ、という記述がまだ多く見られます。もう少し全体的に記述を滑らかに、まとまった文章として推敲した方が良いと思います。とはいえ、現状では出典不足の部分はたとえ全部除去しても大きな影響はなく、文章構成のぎこちなさも、理解困難というレベルでもないので、これらの問題は良質な記事足り得ないと言うほど大きな瑕疵ではないと考えて賛成票といたします。
§2.1.1 誕生
  • 「正儀の正確な生年は不明だが、正平3年/貞和4年(1348年)1月6日時点で元服を済ませておらず幼名を名乗っていたと見られるため(→初陣)、仮にこの年に丁度数え16歳だったとすれば、元弘3年/正慶2年(1333年)の誕生となる。ただし、根拠となる文書には偽書という疑惑もあり、確定ではない。
「根拠になる文書」とは、「初陣」節で解説されている「「虎夜刃丸」なる幼名を名乗る人物が添え書きしたと思われる書状」のことであろうと思いますが、「(→初陣)」とリンクがあるものの、「初陣」節を見ても(最初から読んでいけばわかるとは言うものの)すぐに見つけることは出来ませんでした。こういうものは、他の節を参照せよ、ではなく面倒でもその場で出典提示をするか、もしくは脚注化していただければ、と思います。たとえば、「根拠となる文書<ref> 「虎夜刃丸(とらやしゃまる)」なる幼名を名乗る人物が添え書きしたと思われる書状(『河内国南河内郡長野町和田某家伝文書』)</ref>... 」という感じで。
また、「仮にこの年に丁度数え16歳だったとすれば、元弘3年/正慶2年(1333年)の誕生となる。」は何か出典のある記述なのでしょうか。元服前だったとしても16歳よりもっと若かったかも知れず、「幼名を名乗っていたと見られる」の方は一応出典があるにしても、そこまで言い切ることはできないと思います。
§2.2.2 和平交渉(1351年初)
  • 「和睦が締結されるにはまだ遠く、結局は内戦の継続が決定された」
「内戦の継続が決定」というのは、おそらく出典の記述そのままなのでしょうが、和睦締結がされなかったからといって「内戦の継続が決定」というのも妙な気がします。もちろん、歴史的観点からは、何らかの公的な和睦協定なり条約なりが締結されない限り、何年経過しようが内戦は継続している、ということになるのでしょうが(朝鮮戦争も、公式には未だに終了しておらず、単なる休戦状態という扱いですね)、たとえば「結局は内戦が続くことになった」くらいの方がしっくりくると思います。
§ 2.3.1.2 経緯
  • 「京都の離宮八幡宮の神人は御燈油料として荏胡麻油の生産を行っていたが、諸国の関がこれを妨害するため」
この「神人」とは、おそらく諸国に居住している「散在神人」のことと思われますが、神人の内部リンクをクリックして記事を読むまでは「散在神人」というものを知らず、当然京都在住の人たちと思っていたので、「諸国の関がこれを妨害」の意味が不明でした。「神人」は、高校レベル以上の日本史においては常識的な用語なのかもしれませんが、「諸国に在住する京都の離宮八幡宮の散在神人は」くらいに書いていただいた方が、「散在神人」の意味は知らなくても、とりあえず理解はしやすいと思います。
§2.3.3.2 前哨戦
  • 「山城国八幡を占拠」
日付も主語もなく、文脈が不明です。
  • 「河内国は足利一門が属する河内源氏発祥の地であり、イデオロギー的にも室町幕府の根拠となる領域である」
この部分も出典の表現そのままなのだと思いますが、「イデオロギー」という言葉自体がかっちりと定義づけられているわけでないにせよ、どうもこういう場合に「イデオロギー」という言葉を使うのは微妙に違和感があります。日本史の話だからカタカナ言葉の概念は合わない、というわけではありません。「象徴的」「思想的」などはどうかな、とも思いましたが、それでは「イデオロギー」の日本語化に過ぎない、とも言えるし...ううむ...
  • 「正儀の後、幕府は守護の反乱を警戒して、摂津は管領細川京兆家(宗家)に、河内は管領畠山金吾家に、堺港を擁する和泉に至っては、一国の領有だけでも強大になりすぎるため、細川氏の分家二つに分割統治させるなど、本来ならば管領およびそれに準じるクラスの氏族4人によって分割で担当される地域だった」
意味の取りにくい文章です。「正儀の後」とは正儀の死後(もしくはその後南朝に帰参した後)という意味でしょうか。「正儀が守護に命せられた地域は、正儀の死後、幕府が守護の反乱を警戒して...分割統治させた。このように、これらの地域は本来ならば...担当される地域だった」などと分割した方がわかり易いと思います。
§5 墓所・史跡など
  • 久親恩寺 - 大阪府枚方市
本寺は正儀と直接関係があるわけではなく、正儀の旧臣という人物が本寺の開基とされる(しかもそれすら確実な話ではない)という程度の関係しかない寺社のことまで言及する必要はないと思います。この程度の「関連する史跡」に言及するのなら、それこそ親族一同や友人や部下の墓所やら菩提寺やら、あるいは出家した人物がいればその出家先やら、キリがないほど多くの「関連する史跡」を取り上げなければならないことでしょう。
--Loasa会話2019年6月19日 (水) 14:49 (UTC)[返信]
  • コメント 大変興味深く読みました。以下のような点が特に気になります。導入部に「南北朝時代最高の名将」「内戦を終結させて太平の世を導き、その成果は「一天平安」と称えられた」と書かれていますが、そこまで高く評価する出典があるのでしょうか(本文では「再評価」の節と対応するということでしょうか。後者については「『大乗院日記目録』は、この日のことを、「南北御合体、一天平安」と記した」という文章が本文にありますが、この書き方だと単に明徳の和約について言及したもので、楠木正儀の功績について直接的に「その成果は「一天平安」と称えられた」と言及したものではないように見えます)。また、『大日本史料』所収の史料(ウィキペディア用語の一次資料)に直接依拠している部分がけっこう多く、「Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料」の観点からは若干問題があるように思います。また、Loasaさんの指摘されている誕生年の部分や、「~ためか」と書かれている部分(例えば「散位時代の正儀の通称については、父である「楠木河内判官正成」が当時著名だったためか」「正儀の功績に報いるためか、あるいは箔付けして代表として動きやすくするためか」)などのように、出典によらない独自研究なのではないかと思われる部分が散見します。--伊佐坂安物会話/履歴2019年6月19日 (水) 16:01 (UTC)[返信]
  • 反対 大河ドラマの主人公にしてはどうかと思うぐらい興味深い対象であり、労作であることは論をまたないのですが、まだちょっと粗いと思います。人物記事にありがちな傾向かもしれませんが、主題と直接の関係がないことを詳しく盛り込みすぎたり、過度な評価やだれのものかわからない推測が随所に見られ、項目全体の見通しと記述の信頼性がいまひとつです。ここからさらに情報の吟味と整理をお願いしたいところです。したがって反対とします。以下に主な問題点をお示ししますが、長い記事であり、すべてを網羅できてはいません。すでに指摘のある点と重なるものもありますが、ご了承ください。
記事の前半は、長い「概要」とそれ以上に長い「生涯」の大きな節でできています。これほど長い「概要」が概要たり得ているのかという疑問があります。つづく「生涯」では、正儀の事績としては概要以上の情報はほとんどなく、詳しくなっているのは正儀が関与していない事象を含む南北朝の戦い全般の経緯です。これらの大部分の期間において、正儀が主役級として関わっていたことはその通りとしても、南北朝の戦いについては別の項目があるのですから、ここでなにもかも触れるのではなく、あくまでも記事主題である正儀の業績を中心にして説明すべきでしょう。極論になりますが、個人的には「生涯」は丸ごとカットし、「概要」を少し膨らませて「生涯」としても十分だと思います。
後半は、「人物」と「評価」が主体ですが、「性格」のところで温情、温厚、寡黙といった表現に適切な出典が見当たりません。軍忠状の書きぶりは、丁寧とはいえてもこれだけで温情・美徳というのは過剰です。また花押の変更や京を4回占領したことなどが性格のなにを語っているのか不明です。「後村上天皇との関係」では、正儀が一度激怒したことは事実としても、それだけで「不仲どころか憎悪の関係」とは言えないでしょう。これにも適切な出典がありません。「槍の普及者」では、ここにも概要が設けられていてくどくなっています。しかも槍の語源的なことなど正儀と関係のないことが説明されています。正儀が槍を効果的に使用した例として挙げられているのは2回であり、そのうち細川頼春を討ち取ったケースは、太平記の三井寺合戦の記述にすでに先例があり、2度目の第4次京都攻防戦では、槍の使用を提案したのは細川清氏だったとされています。これで「普及者」といってしまうのは疑問です。「戦略革命」節では槍の使用については否定的に書かれていることも含め、書きぶりを整理すべきです。
「評価」節では、徳川光圀が正儀の花押をひと目で見分けたことで「光圀は正儀の去就に相当な関心があったらしく」としていますが、花押の判別と去就への関心は別事であり、前段で正儀の扱いが小さいこととも矛盾します。「正儀の弁護」に小説が紹介されていますが、その意味がわかりません。「墓所・史跡など」では正儀の旧臣にちなんだ寺が紹介されていますが、これだけでは正儀ゆかりの史跡とはいえないでしょう。--みっち会話2019年6月20日 (木) 08:28 (UTC)[返信]
  • コメント 加筆の主編集者です。長い記事にも関わらず、貴重で意義深いご意見を多く貰うことでき、査読してくださった皆様に心から感謝します。ただ、すぐには回答や記事修正の時間が取れないため、選考期間の延長を希望します。どうかよろしくお願いします。Senu会話2019年6月24日 (月) 11:58 (UTC)[返信]
  • 主加筆者の方よりご希望がございましたので選考期間を延長します。延長期間についてのご希望はないようなので、最大限度の4週間の延長とします。--Loasa会話2019年6月24日 (月) 12:49 (UTC)[返信]

選考終了時点で賛成2票、反対1票のため、今回は見送りとなります。--Mogumin会話2019年7月25日 (木) 01:54 (UTC)[返信]