Wikipedia‐ノート:出典を明記する/詳細な名称・数量・日付・所属・内訳などの補完情報・付加情報について

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詳細な名称・数量・日付・所属・内訳などの補完情報・付加情報について[編集]

出典の表示の恣意的な削除の問題に関連して別の観点から考えていたことなのですが、出典の表示のもととなっている情報源はすべてが同質の内容をもっているという前提は成り立つものなのかどうかについてうかがいたいです。今回確認したいのは、記述内容をより詳細化・具体化するため、名称(人名・団体名・地名など)・数量・時期(日付など)・所属・内訳・性能・形式などの情報を一文中で他の資料によって補完・付加する形で記述される場合についてです。以下は架空例なのですが

  • 「…。2000年12月、Z国は人道支援の目的で食糧、衣料、医薬品を提供した。…」【資料1】
  • 「…。2000年12月にZ国から人道支援物資として1万トンの食糧などが現地に送られた。…」【資料2】

以上の2つの情報から「2000年12月にはZ国から食糧(1万トン)、衣料、医薬品が人道支援物資として提供された(資料1と資料2を出典として示す)」と記述することについてです。質問は次の3つです。

  1. 以上のような補完情報・付加情報の追加はWP:SYNに違反するでしょうか。
  2. 私論のWP:CITECLUTTERによれば「文全体や段落が、特定の出典を引くだけで十分であるように文章を構築し、一文が複数の情報源を必要とするような文章構成は避けてください。」としています。このように一文には一情報源とする考え方をとると名称(人名・団体名・地名など)・数量・時期(日付など)・地位・所属・内訳・性能・形式等の補完情報・付加情報が別の情報源によるものである場合には、別の情報源からの補完情報・付加情報は一文にまとめるべきでないことになり、例で言えば支援物資のうち食糧は1万トンであったという部分は【資料2】にはありますが【資料1】にはない情報なので文を切り離すべきということになります。ガイドラインであるWP:REFは私論のWP:CITECLUTTERとは異なり「内容に問題がないか確認できる」「読者がさらに調べるときの参考になる」という観点に基づいて一文に複数の出典の表示を設けること自体は認めているのですが(先般の議論でも確認)、そうではなく文章構成の理想という観点からみたとき補完情報・付加情報についてはどのように扱われるべきでしょうか。ちなみにガイドラインのWP:EMBEDでは「詳細に説明したり文脈を明確にしたりすることは、文章では可能ですが箇条書きでは難しいため、通常の記事では文章によって書かれることが望まれます。文章は人に語って聞かせるように流れていきます。文章は説明を目的としているため記事に用いるのに最適です。」となっています。
  3. 補完情報・付加情報が一文に取り込まれている場合、複数の出典の表示が並ぶわけですが、これが事後的に整理される際の問題についてうかがいます。例えば私論のWP:CITECLUTTERの「どうやって過剰な脚注を整理するか」の基準では情報源の信頼性と最新かどうかを基準に整理すべきであるとしています。ところが、上の例でいうと【資料2】の出典の表示が削られると「1万トン」という情報については【資料1】の内容には含まれていないので、根拠が失われ、検証可能性のある記述から検証可能性のない記述へと変化したことになると思います。WP:BURDENによれば「信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません」とされています。出典として表示されている情報源での内容はすべてが同質・均質の内容をもっているという前提に立って出典の表示が整理されると、検証可能性を損なうおそれもあるのではないかと考えるのですがどうでしょうか。なお、出典の表示の保護についてWP:REFのノートでは既に冒頭に明示されている「内容に問題がないか確認できる」「読者がさらに調べるときの参考になる」という機能の観点から議論が行われ合意形成されていますが、今回は検証可能性からの脱落という観点からのコメントをお願いします。

--W-run会話2013年10月3日 (木) 21:05 (UTC)

  • 厳密には「情報の独自の合成」であり独自研究に当たるとおもいます。食糧支援は好例だとおもいますが「食料○○トン支援」という術語そのものが政治的用語であり、貨物分類や統計にもとづいた用語ではない可能性も本来は考慮すべきでしょう。経口保水液やサプリメント類がどちらに分類されているかどうか、などといった統計上の観点もありますし、また政治・外交的言明として「食料総量○○トンの支援を実施する」と表現されても現実の執行ではそれ以下に留まるケースもあり、正確性の観点ではむつかしい問題を含んでいると思います。むしろこういった事後検証や事後追跡はそのものが学術テーマであり、ひるがえってWikipediaにはそぐわない主題だともいえます。なるべくは元の情報源の文脈に沿うようにWikipedia上で紹介し、独自の合成は行わないように文脈を工夫するのが本則だと考えます。今回の例では【資料1】【資料2】を引用元明示のうえ単純併記し、この合成作業については記事上で行うのではなくwikipedia読者に委ねる体裁で宜しいかと。--大和屋敷会話2013年10月4日 (金) 05:44 (UTC)
問題点の判断材料として提供するのにもっと良い設例があればよかったかもしれません。一般論として検討したとき、WP:SYNでは特定の観点の推進が禁じられているわけですが、他資料による詳細な情報が補完情報・付加情報として入り込むとたちまち「特定の観点」が表出してきて独自研究になるというのはWP:SYNが規定している趣旨とは違うような気もすることと、複数の出典の表示が付けられている場合に情報源ごとに名称・数量・時期・所属・内訳・性能・形式等の記述が詳細に記述されている要素がそれぞれ異なる場合があるというのは容易に考えられますので出典の表示の一部削除によって検証可能性からの脱落というおそれもあるのではという観点から今回のような問題提起を行いました。
表題の各要素(名称・数量・時期・所属・内訳・性能・形式)について、一文中で補完関係・付加関係が生じることが全く許されないとする考え方をとると、詳細に記述されているほうで内容を補完させながら一文にまとめるということは認められないので一つずつ別々の文章で細切れに追加していくべきという結論になります。単純な例にしますが、同じ事象で資料Aの情報だと「1980年末、111人の部隊が」、資料Bだと「1980年12月29日早朝に約100人の部隊が」となっていて、詳細に記述されている要素が異なっているときにも「1980年12月29日早朝に111人の部隊が」のようにまとめることは認められず文を別個に分離することになります。しかし、情報が詳細になっているほうを選択することでたちまちWP:SYNでいう「特定の観点の推進」になるというのも何か違うような気がしますし(例で言えば「1980年12月29日早朝に111人の部隊が」となったことによって特定の観点の推進となったのかどうかという問題)、具体的説明の基本的要素である「いつ」「どこで」「誰が」といった要素について詳細に記述されているほうの情報をそれぞれ分離して細切れに配置することは特に状況説明などの際の文章構成としてはかなり難があるとも思うからです。最初に参考のために掲げたガイドラインのWP:EMBEDでは「詳細に説明したり文脈を明確にしたりすることは、文章では可能ですが箇条書きでは難しいため、通常の記事では文章によって書かれることが望まれます。文章は人に語って聞かせるように流れていきます。文章は説明を目的としているため記事に用いるのに最適です。」となっていますが、「文章は人に語って聞かせるように流れていきます」と規定しているところからみて、短文を単に横並びに羅列したような文章を念頭に置いたものではないとも思います。
文章構成がどうあるべきかという問題以上に、実際には、情報源の各要素は完全に同質の内容を持つわけはないので、詳しく記述されている要素が複数の資料間で異なっていて編集時に互いに補完関係・付加関係が一文中に存在することになっているといった事例が現実に存在していると考えられ、(仮に体裁を調整するにしても)出典の表示について機械的な整理が行われると検証可能性からの脱落の問題を生じるのではないかと思っており、どちらかというとそちらのほうが問題ではないかなと思っています。--W-run会話2013年10月4日 (金) 19:58 (UTC)
  • 戦闘に参加している兵士の総数の推計は問題になりそうですね。軍団の定足数がA人で、この戦闘には2軍団が投入されたので総数はA×2だ、みたいな推計を安直にやってしまいがちなのは良くある話しで、この推計が外部の信頼できる引用元で行われているのならばそれをそのままWikipediaに引用してもルール上は問題ありませんが、外部の引用元では「2軍団が投入された」としか記述されていないのに、Wikipedianが別の資料から「この当時の軍団の定足数は8000人」という情報を別途仕入れてきて、「だから総数16000人投入された」と勝手に計算してしまってはダメだと考えます(実際はすでに損耗しており定足を大幅に下回っていることが判明していたりするかもしれない)。--大和屋敷会話2013年10月4日 (金) 22:29 (UTC)
WP:SYNが禁止しているのは「特定の観点を推進するような合成」であって、合成が全てダメと言ってるわけではありません。W-runさんが挙げておられるような事例では、WP:SYNが問題になる可能性はかなり低いと思います。
ただ、仮にWP:SYNに問題がないとしても、合成が正確に行われているかどうかは慎重にチェック・確認しなければなりません。例えば上のW-runさんの例では「1980年12月28日深夜に先発隊15名が、さらに翌29日早朝には主力部隊96名が」のようなことも考えられるわけで、情報を単純に合成してしまうと、不正確な記述になってしまいます。思いもよらぬところに素人が考えつかない可能性が潜んでいることはごく普通にあることですから、Wikipediaの編集者としては、よほどの確信がある場合以外は安易に情報の合成をすべきでないと思います。
それから、出典を整理する場合の話ですが、除去する出典の情報が使えなくなるのは当然のことです。出典を除去するときには、その出典以外に根拠がない記述もセットで除去しなければなりません。通常、出典を整理するときには、一定レベルの信頼性をクリアした資料の中から、最も詳細な記述をしているものを残すと思います。そのような資料中に記述がなく、ごく少数の資料にだけ書いてある情報については、Wikipediaの記事に本当に必要な情報かどうかを、まず問うてみるべきでしょう。--118.19.55.11 2013年10月4日 (金) 22:53 (UTC)(ログインを忘れました。上記発言は私のものです。--Dwy会話2013年10月4日 (金) 23:11 (UTC)
WP:SYNについて言えば、複数の情報源に基づいて新たに「特定の観点」を生成することは禁じられていますが、複数の情報源が相互に名称・数量・時期・所属・内訳・性能・形式・状況などの要素について補完・付加するような関係になったことから直ちに「特定の観点」がもたらされるということになるわけではないのではないかと考えています。
理想としては各要素について包括的に記載されているような信頼できる情報源があればそれに越したことはありませんし、各記述が同質の内容を持っていればこのような問題は生じません。しかし、電子版の新聞記事などで比較するとよくわかりますが実際には詳細に記述されている要素は各情報源によってばらつきがあるほうが通常です。検証の関係を示すために詳細に記述されている情報源にあわせて一文ずつ切り離していくとなると、一つの事象についての具体的な状況説明を行う際に困難な状況を産み出しますし、記事名との関係から考えて本来は一文でまとめて済むような内容である場合に補完情報・付加情報を一つずつ分離して冗長に文章をつなげるのも何か違うような気もします(私論のWP:CITECLUTTERでは「あまりに多くの注釈を付けると読者の混乱を招き」ということなのですが、仮に一文一情報源という形式的な観点をとると検証の関係を維持するためには各文を分離せざるをえなくなって「あまりに多くの短文を付けると読者の混乱を招き」というようなことにならないのかなとも考えます)。もちろん他の資料による補完情報・付加情報またはそれらからの推量によって新たな情報を生成してしまっていないか、また、見解や認識に対立があるような要素ではないのか、特に厳格に慎重を期すべき場合であるという認識は持っておく必要があると思います。WP:RSとの関係からみても信頼できる情報源での記述の上に信頼性に疑いのある情報源で補完情報・付加情報を加えると一文全体が信頼性に疑いのある文になってしまいますので注意が必要かと思います。
執筆時にはこのような慎重な配慮が必要であるという前提があるわけですが、整理時にも慎重な配慮が必要かと思います。名称・数量・日付・所属・内訳などの一部の要素について補完・付加するような関係が存在しうるとすれば、出典の表示にある情報源はすべて同質の内容をもっているというような前提に立って機械的に削除されると、一部の要素を検証可能性から脱落させてしまうおそれがあると思います。
出典の表示あるいは出典の整理に関しては、出典の表示を行う位置についても考慮することが必要かと思います。例えば同一人物について資料Aで「特技は空手」、資料Bで「特技は日本舞踊」となっていて、「特技は空手と日本舞踊(資料Aと資料Bの出典の表示)」とされているか「特技は空手(資料Aの出典表示)と日本舞踊(資料Bの出典表示)」とされているかです。特技についての記述ではあるものの前者のようにまとめられていると出典の内容との結びつきが分かりにくく、事後に情報源はすべて同質の内容をもっているという事実とは異なる誤った認識に基づいて機械的判断で出典の表示が整理されてしまうと「空手」か「日本舞踊」のいずれかを検証可能性から脱落させてしまうことになります。出典の表示については、具体的な状況説明のように複数の要素(「いつ」「どこで」「誰が」「どのような状況で」といった要素)が複雑に入り込んでくる場合もあるとは思いますが、執筆段階でも前もって可能な限り出典の内容との関係が明確になるよう配慮も必要かと思います。--W-run会話2013年10月5日 (土) 03:27 (UTC)
コメント情報源はすべてが同質の内容をもっているという前提は成り立つものではないでしょう。
1:最初の例示の場合は違反しない。大和屋敷さんの意見は、情報源が見つかるなら、より精緻な書き方ができる場合、好ましい場合があるでしょうし、資料A・資料Bから要約するなかで術語の理解や扱いに間違いがあった可能性はありますが、W-runさんが例示し、扱いたい論点のなかで、そうしたことを考慮する必要はないと思います。単一の情報源からでも間違うことはある。
2:このましい記述のあり方と情報源とそれが含む内容は様々ですから、一文に複数の出典の表示を禁止したり避けたりする必要はありません。どういう記述が最善なのかを、その場その場で決めればいいと思います。
3:いずれかを除去すると、情報源が存在し、それが記事において明示されていたにもかかわらず、明示されなくなってしまうのですから、「過剰」ではないですよね。過剰ではないのだから、基準はどうあれ、一方を除去する形で「整理すべき」でもない。
ぼくなら、資料Aと資料Bの主題や信頼性の程度が大差なく、相互に補完する関係にあるなら(どちらも新聞の時事的な報道だったり)、「2000年12月にはZ国から食糧(1万トン)、衣料、医薬品が人道支援物資として提供された[1]。/脚注として:資料1書誌情報、資料2書誌情報。なお支援物質の内容について資料1、総量については資料2」とします。この主題、この記述内容の場合は、資料A・資料Bが独自に調査して得た情報ではなく、同一又は類似した情報源から、資料A・資料Bがそれぞれに重要と思われる内容を抽出していると推察できます。両方の情報を含む、よりオリジナルに近い資料や、より詳細な資料の存在が期待できます。余裕があれば、そうした資料を探し、一定のアクセシビリティがあればその情報源を主としたものとして加えるか、置き換えることを考えます。資料Aが記事の主題と直接関わるもので、資料Bが時事的報道なら脚注は「資料1書誌情報。なお総量については資料2。資料2書誌情報」とするでしょう。--Ks aka 98会話2013年10月5日 (土) 05:39 (UTC)
出典の表示については設定・追加・管理という一連の過程を全体的に捉える必要があると考えています。先月から出典の表示の管理について議論していますが、出典の表示の恣意的削除といった事後的整理の問題について考えるときに、出典の表示のもととなっている情報源はすべてが同質の内容をもっているというような認識が存在しているのではないかと思いました。そこで、そのような前提認識は果たして正しいのかうかがいたいと思って今回の問題提起を行いました。仰るように設定の段階では情報源の内容との関係性を的確に示すことができるよう丁寧に出典の表示を設定することが重要になると思いますし、管理の段階ではこれまで維持されていたはずの検証可能性から一部が突然と取りこぼされるような整理が行われることがないようにしないといけないと思います。--W-run会話2013年10月5日 (土) 08:36 (UTC)
コメント 最も最初の設問については、「食料(一万トン)」は誤りですね。資料2は、一万トンの食料+αとも、食料その他で合計一万トンとも読めますから。つまり「一万トンの食料」「など」と読むか「一万トンの」「食料など」と読むか、です。仮にこの問題がなかったとした場合は、特に問題となるものではありません。出典の合成とは、結局の所、こじつけや我田引水など邪悪な行為の話です。全ての部分を単一またはほぼ同一の文献を用いて書ける訳はありません。ある程度の基礎知識を持った分別有る大人が見て、明らかに矛盾しない件について相互に補完しながらの執筆は通常の事でしょう。例示されたケースはまさしくそれに当てはまる物、自明である事と思います。
軍隊について例示された件ですが、これは相互が矛盾しているのですから、単に資料Aによれば○○、資料Bによれば××と書けば良いだけで、「早朝」についても、資料Bによればに含ませれば済む話です。ただし複数の情報源が登場した時には、本文には主流となっている情報を示しておき、後に補足的に、または脚注として異説を示しておけばいいでしょう。こういうものは合成してはいけません。
また、Ks aka 98氏も仰っている通り、出典に一言添えておくのは、時として非常に有効な方法で、私も良く用いていました(それほど徹底していたわけではありませんが。・・・何より執筆者本人の健忘録だったりもします)。わかりやすいのが一番です。以上については割と普遍的な考え方であると個人的には思うのですが・・・。
ただまあ、もちろんここでの本論はW-run氏に執筆講座を行うが如き事ではなく、必要であれば「出典を明記する」の文章を改訂することであるはずです。ここまでのやりとりの結果、文書のどこかに不備が、ございましたか?--Hman会話2013年10月5日 (土) 11:30 (UTC)
問題点の判断材料に用いる設例としてはもっとよいものを用意しないといけなかったかもしれません。反省しております。WP:SYNについてのHmanさんの「出典の合成とは、結局の所、こじつけや我田引水など邪悪な行為の話」という御意見は単刀直入で明快な印象を受けました。私が複雑に考えすぎなのかもしれません。複数の情報源の取扱いについてですが、出典の表示を設定する段階にしても整理する段階にしても表面的にみて個人的な見解が含ませられている場合と全く判別することができないような状態となることを認めると、検証可能性の維持や独自研究の回避が困難になってしまうので避けなければいけないと思います。WP:REFの内容ですが今回の問題についての不備があるとは思っていません。既に前回の追加で出典の表示の整理に対しては相当慎重な対応を求めているわけでして、出典の表示の取扱いについては「内容に問題がないか確認できる」あるいは「読者がさらに調べるときの参考になる」といった出典の表示の機能を損なうような整理を認めるべきではないという観点での議論が主だったと思います。その後、これらとは別の観点で出典の表示の事後的整理によって一部の記述内容が検証可能性から脱落してしまうような問題も生じうるのではと思いました。そこで過去の議論をいろいろと探してみましたが見つけられなかったもので、ここで明確にしておければと思い議論を提起しました。ここまでコメントをうかがってみると複数の情報源がすべて同質の内容をもっているという前提が成り立つわけがないという御意見が大勢だと思うのですが、執筆の段階と管理の段階では認識が異なるのでしょうか。既存の出典の表示の取扱いが問題となっている事例を見るとき、どうも管理の段階ではこのような観点が看過されてしまっているのではと見受けられるようにも思います。--W-run会話2013年10月5日 (土) 14:13 (UTC)
まあ現状で特に問題がないなら良いですが・・・。もし不安でしたら、「必要なら脚注内に書誌情報のみではなく、どの情報の出典であるのかを明記しておいても良いでしょう」くらいは書いて置いてもいいかもしれませんね(私が良く使っていたTemplate:sfn、便利なんですけどコメントが入れづらいのが弱点!)。そんなことは年季の入った執筆者であれば当然そのくらいは心得ているのですが、何分、こういう文書は初心者さん向けですから。--Hman会話2013年10月5日 (土) 16:38 (UTC)
コメント数年間記事を書き、それ以上に記事を読み、選考にも関わってきた感覚で言えば、Wikipedia:脚注過剰に書かれた「文全体や段落が、特定の出典を引くだけで十分であるように文章を構築し、一文が複数の情報源を必要とするような文章構成は避けてください。」という文は私論としても「少数意見の見解」側に入るものだと思いますし、これを根拠に出典情報を整理することはあまり好まれないだろうと思います。出典整理を行うとしても、実際に情報源に当たりながら整理を行えば「これまで維持されていたはずの検証可能性から一部が突然と取りこぼされるような整理」など起こり得ないですし、記述の出典となっている書籍などの情報源に実際に当たることなく、勝手に情報源の内容が同一だというありえない仮定の元に情報源の事後的整理を行うなど論外でしょう。理由の説明もなく単純に出典を除去するだけの行為を繰り返せばWikipedia:荒らし#不当な白紙化の類型として注意、警告されることがほとんどですし、除去が必要であるような合理的な理由の説明が十分になされノート等で議論がされた上での除去であれば問題となることはあまりないでしょう。また、Wikipedia:編集方針#記事の改善を試みて下さい、但し慎重さも忘れずにに「除去によって改善を行うのであれば、その記述を行った人を含めた他の編集者への呼びかけを行うなどの配慮をしてください。」とあるように除去を行うのであれば周囲へ十分に配慮することが求められています。そもそも対象となる記事の執筆に関わられておらず記事に使われている出典を直接参照することもできない方が「出典の管理」だけを行おうとすることは記事の発展に資するような行為でなく、望ましい活動であるようには思えません。そのようなことは実際に現役で記事を執筆されている方々の中では当たり前に共有されている認識だと思いますし、今更わざわざガイドライン文書のノートでやるような話ではないのではと感じます。それとも、具体的にそのような実例が多数あり、その都度1件1件注意して回るだけでは追いつかないほどに頻度が高く、方針文書などに盛り込んで抑止しなければいけないというような事がどこかで起こっているのでしょうか?W-runさんの懸念は実際に記事執筆にあまり関われていない方が方針文書の文面だけを見て現実的でない杞憂に陥っているだけのように見えます。--重陽会話2013年10月5日 (土) 14:41 (UTC)
私論についてはテンプレートにあるように「私論には広く共有されている考え方もあれば、少数意見の見解もあります。内容の是非については慎重に検討してください」とあり、WP:CITECLUTTERが現在どの程度の位置にあるのかも確認してみたかったというのもあります。また、今回のような観点での議論が過去に行われたことがあったのかなとも思いました。重陽さんが仰いますように既に共通認識であり自明の問題であるということであれば私としては大変満足です。ただ、前回の議論である「Wikipedia‐ノート:出典を明記する#出典表示の重要性の再確認と複数付けられた出典表示の保護について」も今回の議論も私が提起しましたが、何の具体的事実もないままに問題を提起しているというようなことはありません。その点はどうか御理解していただけないでしょうか。時間をかけてそのような面倒なことをするわけがありません。Wikipedia‐ノート:出典を明記する#出典表示の重要性の再確認と複数付けられた出典表示の保護についての冒頭にありますが問題提起に至った理由を記載していますので御確認いただければと思います。たしかに私も現状では「実際に記事執筆にあまり関われていない方」になってしまっており、現に問題なく運用されているということであれば、これ以上皆さんにお手数をかける必要もありません。皆さんにお任せすることにしてコメント依頼を取り下げ私は退場します。--W-run会話2013年10月5日 (土) 21:45 (UTC)

コメント 今回の議論で当然の共通認識ということで安心しました。先月の議論での合意された事項についてメンテナンス関連の各文書に御報告し、ひとまずコメント依頼は終了とさせていただきます。このような観点での議論が過去に見当たらなかったもので議論を提起しましたが、あまりにも当然のことだったようでお手数をおかけしたかもしれません。皆さんからご意見を頂く機会をいただき感謝しております。--W-run会話2013年10月6日 (日) 00:46 (UTC)

コメント 今回の議論は問題事例に関連して数点うかがったもので具体的な提案を前提としたものではありませんが、この問題があまりに観念的な議論であるとの印象を持たれると困るので少し補足しておきます。今回、複数の出典表示の一部が削除されるという事例であったために観念的な議論という印象を与えてしまっているとすればとても残念なのですが、例えばこれ以外の場合にも検証可能性からの脱落の問題は生じます。私が出典を示して記述したもので発生していた事例なのですが、出典を示しておいたはずの一文が事後的な幾度かの編集によって二文に分割されてしまい、その分離によって一部について出典が示されているのかどうか不明瞭な状態になってしまっていたことがあります。出典の表示の設定から管理までの過程について、まず、出典の表示を設定する責任についてはWP:Vの「出典を示す責任は掲載を希望する側に」にあるようにその執筆者だと思います。では、その設定された出典の表示を適切に維持する責任はどうでしょう。最初の執筆者が以後も全面的に維持管理していってくださいということであれば、このノートに私が現れることもなかったと思います。WP:REFにはこれまで出典の設定の方法と出典が欠如している場合の対応については規定がありましたが、既存の出典の扱い(出典の管理)について直接的な規定はありませんでした。前回9月の合意で初めて「個々の記述に出典を設定したり既に出典の表示されている箇所を編集する際には、著作権を遵守しつつ、その記述が出典の内容によって明示的に裏付けられる状態になるようにし、」という文言が加えられたわけです。先月の合意も含み今回の一連の議論で行った論点の整理はいくつかの残念な事例を目にしてきた結果によるもので決して観念的なものではないと考えていますので御理解いただければと思います。--W-run会話2013年10月7日 (月) 02:59 (UTC)