Wikipedia‐ノート:中立的な観点/過去ログ2

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日本語として不自然な部分[編集]

多分英語版からの翻訳だとおもわれる部分で日本として不自然な部分がありましたので引用しておきます。当方en-1であるため詳しいことはわかりません。修正できる方は修正をよろしくお願いします。

「ですが、これらの人々がうまく示せなかったのは、そのようなポリシーをわざわざ設ける必要があるという点です。」

こちらはよく意味がわからない記述。

「もし偏った記述を投稿した人が今後その記述を変更することがないだろうと考えられるのであれば、 その記述を本文からは消してノートのページにコピーするという方法をとってきました。(ですが、完全に削除するという方法はとりません。)」

(本文から削除するという意味なのか否か。) Meteo Light 2006年7月7日 (金) 14:30 (UTC)

私もen-1なので英語の原文からの解釈ではなく、日本語訳からの解釈になってしまいますが。
(「そのようなポリシーを『わざわざ設ける必要がある』という点」について)これは、その直後の文にあるとおり、「疑似科学に惑わされるかも知れない人に対して、疑似科学についての科学者の見方が明確に、完全に、フェアに説明されるべきだというポリシーが既に存在しているわけですから。」が先にあって、そのポリシーを「わざわざ設ける必要があるという点」をうまく示せなかったということです。「『疑似科学に~べきだというポリシー』がそもそも『中立的な観点』ではないから、そういうポリシーを『わざわざ』設けることが否定される」という意味ですね。「そのようなポリシー」についての説明が後ろのほうにあるので、日本語として分かりにくくなっています。これを以下のように書き改めてみてはどうでしょうか。
しかしながら、一部のウィキペディアンはこの点について非常に強い思いを抱いており、「中立的な観点」の代わりに「科学的な観点」が採用されるべきだと信じています。彼らは「疑似科学に惑わされるかも知れない人に対して、疑似科学についての科学者の見方が明確に、完全に、フェアに説明されるべきだ」というポリシーを持っていますが、これは「中立的な観点」に反します。彼らはそのようなポリシーをわざわざ設ける必要があるのかという点について、それをうまく示すことができませんでした。
(「ですが、完全に削除するという方法はとりません」について)これは、「本文からは完全に除去するが、その記述を生かすべくノートに転記し、ウィキペディアから完全に除去するという手段は取らない」と解釈すべきだと思います(なお、ウィキペディア日本語版では「削除」はWikipedia:削除の方針に従って管理者によりなされる手段に限定し、単に「ある記述を取り除く」という意味では「除去」を用いるべきだという考え方が中心的なようです)。ノートではある程度は「偏った記述」が許されるので、そちらに移して「記述した者の名誉の尊重」と「中立的な観点」を両立させようという考え方だと思われます。こちらは以下のように書き改めることが考えられます。
時折、特にほんの少数の人しか知らないトピックについて、ある主張が真実なのか、あるいは有用な情報なのか、を判断するのが難しい場合があります。このような場合、ノートのページで疑問を提起するといいでしょう。もし偏った記述を投稿した人が今後その記述を変更することがないだろうと考えられるのであれば、その記述をウィキペディアから完全に除去するのではなく、記事本文からは除去するが、その記述をノートのページにコピーの形で転記するという手段をとってきました。しかし、この方法は、多かれ少なかれ最後の手段として用いられるべきであって、決して、偏った記述をした人への罰のように行われるべきではありません。
以上2点についての私の意見でした。--春野秋葉 2007年2月11日 (日) 15:28 (UTC)

誤変換かな?[編集]

セクション2.1.1 中立的な観点とは何か? 「偏りのない」「中立的な」というのはここでどのような意味で使われているのか? の6段落目(「重要な制限事項が一つあります。…」)に「専門化」とあるのは「専門家」の変換ミスかなと思います。--Kemonomichi 2007年1月10日 (水) 11:20 (UTC)

「専門化」の文字がまだ修正されていないようですので、細かな点ですが…。

  • scare quotes参照
    日本語の記事が存在するので、日本語版へのリンクに修正すべきかと。
  • 編集・執筆にする人や記事を読む人
    「に」は不要と思われ。
  • 編集戦争
    「編集合戦」の方が一般的のようで、"edit war"を「編集戦争」としているのは、この文書の他には「Wikipedia:善意にとる」があるのみです。
  • その意見を代表するような人物を引用することが、しばしば最適の方法です
    「人物を引用」とは変な表現だなぁと思ったら、原文の "of the view" が訳されておらず、正しくは「人物の見解を引用」となりそうです。
  • 2001年初頭に、妊娠中絶の記事は、
    恐らくは英語版での実際の出来事でしょうから、英語版での出来事であることを示唆した方が良いと思います。

Rigel 2007年7月11日 (水) 09:45 (UTC)

外国語のカタカナ表記について[編集]

(以下は「ロック(音楽)」におけるノートの引用です.)

諸々の日本語項目に表れている,日本人達の独り善がりな言語観には,閉塞としたものがある.早い話,英語圏などで生まれた言葉の数々を,まるでどの躊躇いをも持ち合わせていないかのように次々とカタカナで表記する慣習は,現象や事実を客観的・中立的に解説するという Wikipedia の目標を妨げてしまっている.「America」や「The Beatles」といった固有名詞を「アメリカ」や「ビートルズ」と綴るぐらいならまだしも,「Wild In The Streets」/wald n θə stɹiːt͡s/ といった外国語文法・音韻体系を含んだものを日本語の限定的な開音節文字体系で「ワイルド・イン・ザ・ストリーツ」/wairudo in za sutoriːt͡su/ と表記することについてはもっと議論があってもいいはずだ.英語版 Wikipedia で一般向けに紹介される日本人の名前や日本語の言葉には大抵,日本語体系を英語人が相対的に尊重するというかたちで漢字・仮名表記が(そしてときには発音記号が)付いている.それと同様の中立的・客観的観点と丁重さを日本人が外国語文化にたいして払えないとすれば,それは改善すべき難点として注目されるべきだ.

「発音がわからないから」というありふれた言い訳は受け容れられない.発音が知りたければ発音記号を読めばいい.外国語の本来の発音を教えるためにカタカナ表記がある,という考えは屈折している.なぜならカタカナは,外国語についてはその音声を表すどころかこれを壊すことにその働きがあるからだ.「日本のロック」という閉じた項目の中で日本人のカタカナ英語をカタカナ表記することには問題がない; 注意すべきなのは,英語圏を始めとする外国語圏で生まれた Rock の言語的側面を,元々の表記体系や発音記号なしにカタカナで置き換え尽くしてしまうことだ.これでは客観的な洞察と解説に至れない.

雑誌や「オリコン」の位表などにみられるように,日本人は,自分の曲や自身のことをアルファベットで提示して自らを(少なくとも表面的に)西洋化させようとする一方で,外国人のものに関してはこれをカタカナで書いて彼らの文化的起源を(少なくとも表面的に)ないがしろにしている傾向がある. Wikipedia においてはそのような自己中心性や他律無視は望まれないものとして判別されるはずではないのだろうか.

投稿している事柄が本当に自らのよく知るところのものであれば,諸々の呼称や曲題をありのままに(すなわちアルファベットで)入力するというのは難しいことではないはずだし,むしろ真実にたいする配慮として尊ぶべき態度ではないのだろうか.

しかし、逆にアメリカで日本語をそのまま使っているなんて事は、皆無ですよ。当然のように全部アルファベット表記に直されています。英語の発音が日本語にないのと同様に、日本語の発音も英語にはありません。なのに日本語だけアルファベットですべて表記というのは、かなりアンバランスな気がします。日本語版のウィキである限り、英語はカタカナで十分ではないでしょうか。--Galaksiafervojo 2007年1月20日 (土) 03:12 (UTC)
カタカナに直すべき。同じ考えでヒンズー語やスワヒリ語までやられたら、読めない人が増えすぎる。--Los688 2007年1月20日 (土) 03:19 (UTC)
ノート:ロック (音楽)#カタカナ表記についても参照してください。--ドラムスコ 2007年1月20日 (土) 06:21 (UTC)


[Galaksiafervojo] さんへ
たしかに、アメリカ人は「カラオケ」とは書かずに「Karaoke」と綴ります。また、おっしゃるとおり、日本人の発音とアメリカ人の発音は異なるものです。けれども、アメリカ人をはじめとする外国語圏(とくに西洋語圏)の人達は、「Karaoke」などの日本語由来の言葉にたいする正確な参照にまつわる処方を知っています。普段は [kæɹəˈoʊkiː] と発音してしまうアメリカ人も、(英語版)ウィキペディアを訪れる際にはこれが [karao̥ke] であることを学べるのです。(実際の記事 では発音記号のかわりに音声そのものがアップされています。)言葉そのものたいするこのように丁寧な説明態度を日本語版の編集者達は持っているでしょうか? いいえ。 [ɹɒk] (Rock)は、当の記事の冒頭で「アメリカ発の」と説かれていながらも [roʔkɯ] (ロック)として書かれてしまっているのです。現実的なところ日本語の話者はほとんど日本人だけなのでこのような誤報と謬錯は日本語版における一般認識の対象とはなりにくく、根本的な問題としては表面化せず、内輪的な共同意識のもとに匿伏しています。つまり、現状として今の日本語版ウィキペディアは、日本人向けに事実の歪曲を許された、日本人のための百科事典としての性格が強く、日本語で説かれる、正確で信頼できる百科事典には満たないところがあるのです。記事本文の3割がカタカナ語で書かれているとき、私はその記事の情報の3割方を信用しかねます。「lovers」と「rubbers」の区別が表れない「ラバーズ」といった表記を散々に吐いた記事を底から頼りにすることを阻むものがあるのです。--PetitLamp 2007年1月21日 (日) 04:38 (UTC)
[Los68] さんへ
国際語の一つである英語の「lovers」を正しく読めない日本人が既にたくさんいるんです。なぜなら「lovers」という英語を読むことよりも「ラバーズ」という文字列を読むことに彼らは慣れすぎているからです。カタカナに直すことで外国語を読めるようになるという考えは、あなたが本当に望んでいる結果をもたらしません。「je suis heureux」を「ヂュ スイ エルー」と直したってこのフランス語をなんら正しく読めたことにはならず、フランス人には伝わりません(それにもかかわらず日本語による外国語入門書というのはとかくカタカナをあしらうものであり、日本人学習者達を過度に発音音痴化させています)。「直す」というあなたの表現がそもそも思い違いなのです。実際には直されないのです。むしろ壊されるのです。正しく読めるようにならない、原語の話者にも伝わらない、そうなると、外国語をカタカナで置き換えることにいったいどの建設的な価値があるのか、という疑問がよぎります。カタカナ表記は要するに日本人達の独り善がりな処方なのです。あなたの書いた「ヒンズー」という表記がもう既に誤解を招くものなんですよ。あなたの望みとは裏腹に、「ヒンズー」によって「」を正しく読めなくなっている人が増えすぎているのです。少なくとも「Hindi」という綴りはこのように顕著な誤読を生みません。アルファベットが可能としている音声転写が日本語文字にもできるのだとはどうぞ考えないでください。文字体系にはそれぞれの長所と短所があります。仮名や漢字の長所はここでの議論とは関係のないところにあります。
ところで、カタカナに置き換えないと外国語が読めないとなると、カタカナを使わないイギリス人は外国語にたいして完全な盲者となるしかありません。しかし現実はそうではありません。彼らはアルファベットと発音記号を用いて外国語の発音を理解します。アルファベットは公式な日本語文字ではありませんが、今の日本の音楽シーンのアーティスト名と曲名や商業界・政治界の標語・略語の大半がアルファベットで綴られている以上、日本人がこれを読めないなんてことはありえません。また、発音記号(IPA)は基本的に各言語に共有されている文字体系です。すなわち、アルファベットと発音記号を頼りに外国語を読むことについて日本人が根本的にインポであるという必然は無いわけです(ちなみに「インポ」は英語の言葉を流用したうえにこれをさらに日本語風に訳すという勝手な扱いの例です)。あるいは今の日本人は単にこれまでに長居してきた古く温かいコタツ布団(カタカナ語への甘え)の中から外に出ようとしたがらないだけなのかもしれません。
いずれにしろ、ウィキペディアは、そういった特有文化的な気質傾向からは乖離して発展する情報空間であるべきです。先に述べたように、外国語をカタカナに直すことで日本人が得られるのは自己欺瞞的な了解であり、当の語彙にたいしてはただただ謬悠と顔を向けているにすぎません。これは、ウィキペディア編集者が抱くべき究明的な気概とは似つかないもの、妥協と放棄です。--PetitLamp 2007年1月21日 (日) 04:38 (UTC)

Sampoの偏見に満ちたウィキペディアにしよう[編集]

この度Sampoにより中立の記事を書くのをやめようという提案がありました。この人がどういう人でどういう立場の人か知りませんが、本当にそれでよいのでしょうか?--Shoon 2007年3月19日 (月) 03:45 (UTC)

誰もそんなことは言っていません。あなたのいう「中立」はウィキペディア上の「中立」とはかけ離れているようです。--Calvero 2007年3月19日 (月) 04:02 (UTC)
失礼、上のはちょっといいすぎでした。しかし、上記のコメントはここに書き込むのが適切であるとはいえないのではないかと思います。--Calvero 2007年3月19日 (月) 05:08 (UTC)
これは、ノート:アメリカ同時多発テロ事件 での Sampo さんのコメントを、Shoon さんが Shoon さんなりに解釈した結果のコメントのようですね。--スのG 2007年3月19日 (月) 04:26 (UTC)

「意見は書くな」は修正すべきでは[編集]

Wikipedia:中立的な観点#この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くなに付いての提案です。

>>> 事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け--だが意見は書くな。

「意見は書くな」というのは現実離れした方針だと思って原文を見ると、「assert facts, including facts about opinions--but don't assert opinions themselves」となっています。assertは訳しにくい語ではありますが、「書く」とははっきり違います。「意見は書くな」ではなく、「意見を書くときには気をつけろ」と解釈できますし、そうでなくではこのあとの説明と矛盾します。そこで、次のように修正してはいかがでしょうか。

意見についてのものも含めて、事実を前提としてください断言してください。一方、意見そのものを前提と断言してはいけません。

j8takagi 2007年4月20日 (金) 14:18 (UTC)、(英語に関して一部誤解(assertとassumeを混同していました、スイマセン・・・)があったので、修正案を変更しました。j8takagi 2007年4月22日 (日) 08:44 (UTC)


敷衍して平たく書くと、「出典ある事実を記載してください。あるいは信頼おける情報源に公表済みの検証可能な見解を記載することも可能です。しかし、一編集者であるに過ぎないお前の意見を書くな!」ですね(笑)。いやいや冗談でなく、このように解釈しています。Album 2007年4月20日 (金) 14:40 (UTC)
「意見」を考える時、Wikipedia:言葉を濁さないにより、「~意見もある」という表現が禁じ手とされていることも考慮されるべきだと思います。Album 2007年4月20日 (金) 14:51 (UTC)

「おまえの意見を書くな」という解釈には賛同します。ただし、こういう文を方針やガイドラインに入れてしまったらWikipedia:礼儀を忘れないに違反するかも、と思いました(笑)。
「~意見もある」が禁じ手というのを、Wikipedia:言葉を濁さないを読んで考えましたが、次のようなことだと思います。

  • 意見ではなく事実を書ける場合は、事実を書け
  • 意見を書くんだったら、誰の意見かをはっきりさせろ

やはり、「意見を書くな」という話にはならないのではないか、と。

上記2点も含めた意見についての論点は、Wikipedia:意見としてまとめてあると良さそうな気がしてきました(英語版でもen:Wikipedia:Opinionは存在しないようです)。NPOVのほか、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自の調査(→Wikipedia:Attributionに統合?)でも重要な論点になると思います。ちなみに、意見については、Wikipedia:信頼できる情報源#いくつかの定義でも論じられています。j8takagi 2007年4月20日 (金) 19:43 (UTC)


反対、米国版の状況がどうあろうと意見は書くべきでありません。それは中立的観点の全文を読めば明らかです。F86F 2007年4月22日 (日) 05:27 (UTC)


「中立的観点の全文を読めば明らか」とのことですが、F86Fさんがこの文書をどのように解釈しているのかを示していただけないでしょうか(下で提案されている、「内容の明確化」でも同じことが必要な気がします)。私は、「中立的な観点」のなかで修正を提案した部分以外では、「意見を書くな」という記述はされていないと考えています。j8takagi 2007年4月22日 (日) 06:36 (UTC)


長い文章をちゃんと読む能力がない人が多いので仕方ないね。場所は検索して確認してね。 『ウィキペディアの方針としての「偏りのない記述」が意味するところは「論争の種になるような立場を主張することなく、単に記述する」』これが中立的観点の最初でおそらく 最大の意味でっせ。F86F 2007年4月22日 (日) 06:44 (UTC)


F86Fさんは「主張する」と「単に記述する」をどのように理解していますか?わたしはどちらも「書く」の一方法だと思っていますし、そうならば「意見は、主張はせずに書け」という話になると考えます。j8takagi 2007年4月22日 (日) 10:20 (UTC)


横から失礼しますが、ご指摘の――だが意見は書くなの項の3段落目に「意見を述べたいような時には、その意見を誰かの意見として提示することで事実の記述に変えます。」とあるように、「assert facts, including facts about opinions--but don't assert opinions themselves」とは、「どういう意見があるか、という事実を含めた事実を記載すべきで、意見そのものを展開してはならない」という趣旨ですから(ここでいう「事実」は「真実」という意味ではありません。)、「意見」は間接的な形であれば書くことがありえます。その意味で、j8takagiさんの

  • 意見ではなく事実を書ける場合は、事実を書け
  • 意見を書くんだったら、誰の意見かをはっきりさせろ

という区分は妥当だと思います。--磯多申紋 2007年4月22日 (日) 15:30 (UTC)

磯多申紋さんに同意です。「誰々はこう主張している」は可能でそれは出典を明記することと、ある程度広く流布していることを前提に事典に記載する妥当性があります。この方針の中で主張するとは論調の問題が大きく「正当な意見であるA」「Aは正当である」と出典もなくそれが正しいと書き添えることだと思います。F86F 2007年4月23日 (月) 06:45 (UTC)


F86Fさんも「意見を書くな」は修正してもよい、という考えだと理解して良いでしょうか。だとすれば、磯多さんのご意見なども反映して、次のような文にしたいな、と思います。保護との関係もあるのですが。

どのような意見があるのかという事実も含め、事実を主張してください。一方、意見そのものを主張してはいけません。

j8takagi 2007年4月23日 (月) 13:30 (UTC)


NPOVは見てませんでしたが,信頼できる情報源から誘導されて来ました。butを「一方」と訳すのは間違いです。「しかし」と訳してください。磯多さんのご意見の中で,「意見を書くんだったら、誰の意見かをはっきりさせろ」の部分に誤った解釈を許す余地があるように思います。Wikipediaに書けるのは,信頼できる情報源に書かれたことでしかありませんから,編集者の意見であることをはっきりさせて書きましても,それは「独自研究」の記載にあたります。意見がある場合でも,自らの意見として表明するのではなく,「信頼できる情報源」から得られた事実の列挙をもって表明せよ,ということになります。ですので,「「意見」は間接的な形であれば書くことがありえます。」とおっしゃるのは,まさにその通りで,その範囲を限定するのがNPOVの役割ではないでしょうか。議論の本筋をはずしていましたら,ご容赦ください。--Isorhiza 2007年4月25日 (水) 00:39 (UTC)
この提案,反対します。J8takagiさんは,このノートで結論が出ていないにもかかわらず,このノートでの議論の結果と称して,Wikipedia:信頼できる情報源を2回にわたって書き換えました。しかも,WP:RSのノートで何の提起も行わずにです。J8takagiさんの意図に関して,重大な疑いを禁じ得ません。そもそも,J8takagiさんは,Wikipediaの記事に編集者の意見を書くことができる,という意見をこのノートで一貫して表明しておられますが,それは方針の解釈として誤っています。記事に編集者の意見を書くことはできず,信頼できる情報源に記載されている意見を公平に紹介することができるのみです。曲解に基づいた方針の編集を受け入れてはなりません。私は調べませんでしたが,J8takagiさんが,他の方針に関して同様の編集を加えていないことを望みます。--Isorhiza 2007年4月28日 (土) 01:29 (UTC)

内容の明確化[編集]

現在の本文は長くて、中立的な観点って何?という人には理解しずらい。また、長いためその一部分だけを取り出して、相手の意見をつぶす論拠に使っている御仁が一杯いる。もっと内容を分かり易く、ポイントを押されえた概論を最初に書くべきだ。F86F 2007年4月22日 (日) 05:36 (UTC)

私も今のものは、かなり理解しづらいと思います。 そこで「はじめに」の部分を、分かりやすさを重視して書き直してみました。 あくまで私案ですが、なるべく簡潔かつ過不足なく書く事を心がけました。

  • 私の意見が入るのを避ける為、可能なかぎり旧来版の記述を利用しました。
  • 「なぜ中立的であるべきか」の部分のみ、旧来版にはまとまった記述が無かったので、私の言葉で書いた部分がやや多いです。ですのでここは少し議論が必要かも知れません。
  • ざくっと削った部分もありますが、これらは必要なら概要でなく本文に書き加えればよいと考えた為です。

ピロクテテス 2007年4月29日 (日) 16:21 (UTC)


=== 概要 ===

==== 中立的な観点とは? ====

「中立的な観点」はウィキペディアの基本方針の一つで、より「偏ってない」、「中立的な」記事を書こう、というものです。

「中立的な観点」とは、以下の方針を指します。(ただし、あくまで単純化した定義です。もっと詳細な定義は後の節で書きます)。

  1. 特定の観点からの意見を主張するかわりに、論争における様々な立場を公正に説明する事。
  2. 自分の個人的な意見を書かない事。
  3. 敵の為に書く事。
  4. 論争の種になるような意見を「主張」するのではなく単に客観的に「記述」する事。
  5. 意見Aを書く場合、単に「Aだ」という「意見」を書くのではなく、「有名人の誰々はAだと信じていた」、「どこどこの国では30%の人がAだと信じている」のように検証可能な「事実」を書く事。その際根拠となる説明や文献があるとなお望ましい。

4番目のものでいう「主張」とは例えば「○○は正しい」、「○○すべきだ」、「○○だと信じないのは馬鹿だ」などです。「正しい」、「すべきだ」、「馬鹿だ」などは客観的事実とは言いがたいので、このような記述は望ましくありません。

ただし、5番目のものにも注意して下さい。「○○は正しい」というのは意見でしかありませんが、「○○は正しいと有名人の××は言った」というのは検証可能な事実です。意見を書くかわりにこうした検証可能な事実を書く事が望ましいです。例えば「神は存在する」という意見を書く代わりに、「トマス・アキナスは神が存在すると信じた」、「アメリカ人のほとんどが神が存在すると信じている」等と書く方が望ましいわけです。

==== なぜ中立的であるべきか ====

主な理由は以下のものです。(ただし、あくまで単純化したものです。もっと詳細な説明は後の節で書きます)。

  • ウィキペディアは一般向けの百科辞典だから。
  • 意見の押しつけを避けたいから。
  • ウィキペディアの編集は、世界中の人の共同作業だから。
  • 編集合戦を避けたいから。

「論文」や「演説」や「ある特定団体の為の百科辞典」等が自己の意見を主張する為のものであるのに対し、ウィキペディアは「一般向けの百科辞典」なので、その性格上、特定の立場を支持しないほうがよいと我々は考えています。

また、ウィキペディアが読者に意見を押しつけるより、読者が自分で判断するほうがよいと我々は考えています。 ですのでウィキペディアに「意見」を直接書くのは避けたいのです。 ウィキペディアには「事実」のみを書き、そこから読者が自分なりの「意見」を見出す方がより良いと考えているのです。

ウィキペディアの編集が、世界中の人の共同作業である事にも留意して下さい。 ですので、ウィキペディアの編集者・閲覧者の中にはありとあらゆる意見の持ち主が含まれる事になります。 ウィキペディアに自分とは正反対の意見だけが一方的に書かれていたらどのように思うでしょうか? こうした事を避ける為に、中立的に書いたり、様々な観点から書いたりする事が望ましいと考えるのです。

また、編集合戦を避けたいという実利的な理由もあります。 編集合戦とは、異なる立場のAさんとBさんが、自分の意見のみを書こうと互いに競い合う事です。 このような状況では、Aさんが書いた意見をBさんが自分の意見に書き直し、Bさんが書いた意見をAさんが自分の意見に書き直し…という事が延々と繰り返されます。 残念ながらウィキペディアではこうした編集合戦が数秒に一回のペースで繰り返されてしまう事も珍しくありません。 これではウィキペディアの正常な編集が立ちゆかなくなってしまいます。 ですので編集合戦を避ける為、AさんとBさんで話合い、より中立的に書く事が望まれるのです。

==== 基本方針 ====

「偏ってない」、「中立的な」記事を書く為に我々が取る方針は、「人類の知識」(で意義があり、出版されているもの)であれば、どんな意見であれ、全てウィキペディアに書き込むというものです。 Aという意見だけを書いたりBという意見だけを書いたりするよりは、AもBも両方書いた方がいい、というのが我々の解決策です。

もちろん、両方の意見を公平かつ客観的に書かねばなりません。 ただし、ここでいう「公平」というのは、全ての意見を対等に扱う、という意味ではありません。 ここでいう「公平」は、それらの意見が社会や学会などでどのように扱われているかに応じて決まります。 たとえば、学会の通説Aと少数派の説Bがあるとき、単に「Aという意見とBという意見がある」と書くのは望ましくありません。 ちゃんと「学会の通説はAだが、少数派の説としてBも知られている」と書く方が望ましいのです。

なお、この際決めつけは避けるようにして下さい。 「Aは学会の通説だから正しい」、「Bは少数説だから間違っている」などと書くのは望ましくありません。 こうした「意見」を書くのではなく、単に「Aは学会の通説だ」、「Bは少数説だ」という「事実」のみを書く方が望ましいのです。


以下、旧来版と同じく、「この方針の言い換え:事実、様々な意見に関する事実も含めた事実を書け――だが意見は書くな 」、「フェアであることと、好意的な立場」、「芸術作品などの特徴に関する意見」、「ひとつの帰結:敵のために書く」、「ひとつの例」、「批判と回答」を書く。


ピロクテテス 2007年4月29日 (日) 16:51 (UTC)

中立的な観点について相当な違反を犯している項目があります。[編集]

中立的な観点についてあらゆる点において、相当な違反を犯している項目があります。そしてそれに便乗して個人への弾圧をしている人が居ます。

>百科事典の記事を書く際には、中立的な観点以外のどのような特定の立場をとることも、可能な限り明確に避けるべきです。
全くその通りと思います。

問題になっている項目は、もともとはアメリカ同時多発テロ事件ですが、派生して、ワールドトレードセンター (ニューヨーク)‎等関連項目で全く中立でない説明がなされています。また、アメリカ同時多発テロ事件陰謀説爆破解体‎ノート:アメリカ同時多発テロ事件陰謀説/典拠提示作業中ノート:アメリカ同時多発テロ事件陰謀説/典拠提示作業終了分に於いて不当な文章の一方的な要求により、拒否消去移動等の弾圧が行われております。

弾圧例
ノート:アメリカ同時多発テロ事件陰謀説/典拠提示作業終了分#2007-05-03 (1)関係のある文章を関係がないといって無断で移動削除しています。

この本項目の全てを引用したいくらいなのですが、あまりに違反項目が多すぎて既に長すぎるのが更に長くなるので、本文の一部を抽出して列挙します。

>1.それに反対する側の意見がどのようなものであるかを紹介するべきです。
完全に違反しています。
>2.それに賛同しない人々の議論と併せて紹介するべきです。
完全に違反しています。
>人々が何を信じているかは、客観的な事実の問題であり、中立的な観点からたやすく記述することができるものです。
邪魔されるとなかなか出来ません。
>全ての観点からの意見を公正に考慮して、偏った観点を排した記事を書くべきだ、というものです。
政府からだけの報道を鵜呑みにして、その他の科学的調査を全て無視しています。
>記事には特定の立場が正しいと明記したり、暗示したりするべきではない、というものなのです。
この場合は、アメリカ政府が特定の立場でしょう。
>我々の共同作業が不可欠です。
勝手に文章を移動したり、消去して完全に阻害しています。
>はじめに:中立性という基本的な概念と、何故ウィキペディアが中立的であるべきかについて。中立的な見方とは何なのか? 「偏りのない」、「中立的な」と言う時、我々は何が言いたいのか?
私は何度も中立性の欠如を問いかけているのに、一切考えようとしていません。偏りのない記事を書くことは論争に参加することではなく論争を説明すること以前の話で、全て消去されてしまいます。様々な立場を公正に説明しようと文章を変えると全て消されてしまいます。
>中立性のポリシーの言い換え:事実を記述し、様々な意見についての事実も記述せよ、だが、意見の表明は避けよ。
事実を無視し、様々な意見について聞く耳を持っていません。意見を書いているのではなく、事実を書いているのだが、意見を書いていると勝手に思い込んでいる。
>公正さと共感を示すこと
公正さもなければ共感もありません。
>帰結:敵のための記述
敵のための消去は沢山あります。
>例
全て消去
>反論と弁明
余地なし。
>「知られていること」は時間と共に変化しますし、
未だに6年前と同じ内容です。
>引用符を使うわけです。
「政府によると「 」とされた。」とすべきです。
>人類の知識についてやや緩やかな見方をして、互いに競合する様々な理論がどれも人類の知識の一部である、と考えることにします。競合する諸理論が公正に提示されるように、特定の立場が主張されないように、努力するべきです。
全くそのとおりです。
>中立性の方針を掲げることにはもうひとつの理由があります。それは、私たちが特定の観点を読者に押し付けないことが明らかなら、読者に各自自由に考えていいのだと感じさせ、ひいては知的な独立性を支持することになります。
アメリカの政府の一方的な報道を鵜呑みにして押し付けています。
>中立性は独断主義を倒すのです。
そうあって欲しいですが、圧倒的に独断主義が横行しております。
>偏りのない記述は、最も普及している観点だけを提示するものではありません。様々な異なる観点の中間に位置する観点からの意見を(中間=中立であるかのように)正しいものとして提示するものでもありません。
中間どころか、丸っきり偏った記述がなされています。
>ある論争についてその特長を説明しつつ、特定の立場をとらない記述をする。
論争以前の話で、一切記述させてもらえません。
>少数の人々が支持する観点
この少数の定義が難しいと思います。どこかの村の90%と東京の3割と中国の1割以下との場合どれが少数なのでしょう?それに私が記述することは、過半数には達していなくとも少数意見でもありません。
>その観点が真実であるといった形で表現されるべきではありません。
政府の見解があたかも真実のような記述がされており、それを訂正するたびに消されてしまいます。
>競合する様々な観点を、その主題についての専門化や関係者の勢力に合わせて提示すべきです。
一切されていません。
>少数派の観点が、それぞれの記事においても軽い扱いを受けるべきだ、ということではありません。
思いっきり軽い扱いどころか無視および隠蔽です。
>数の上では誤った意見の方が多いようではありますが。
この記事もその一つだと言うことを気づいていないようです。
>フェアであることと、好意的な立場 もしも論争についてフェアに説明するのであれば、競合しあっている様々な立場を、
常に肯定的で好意的な形で提示すべきです。フェアではもちろんないし、好意的でもありません。肯定的で好意的に定時なんかあるわけもありません。
>例えば、○○の考え方はよいアイディアだ、但し、一部の反対意見によれば、そうしたアイディアは××を見落としていると言われている、という書き方ができます。もしこういう書き方ができなければ、記事の内容にはいろいろ問題が残り、後に他の人の編集の際にそれを中和するような変更がなされることになるでしょう。
このような表現も一切ないし、問題の中和の余地ももたせてもらえません。
>全ての競合する立場を好意的に説明しましょう。
全くその通りです。
>ひとつの帰結:敵のために書く
政府の見解においても不足分は、私も、書くことがあります。

最後に質問です。擬似科学が少数派ではなく多数の場合はどうなるのでしょう?もっとも少数派の本当の科学的な意見を完全に無視しています。全て論争をフェアに説明するという任務の一部ですって?フェアに説明されるべきだというポリシーが既に存在しているわけですから?

われわれの多くは、ある記述が偏った見方から書かれているという事実だけでは、その記述を即削除してしまう理由としては不十分だと考えます。もしもその記述が完全に妥当な情報を含んでいるなら、それを活かすべく編集されるべきで、削除されるべきではありません。ですって!--Shoon 2007年5月6日 (日) 02:39 (UTC)

あまりに見にくいので整形しました。投稿結果上で改行するためには、改行2つか箇条書きのマークアップなどが必要ですよ。なお、このノートページは中立的な観点の方針文の解釈や、改変について話し合う場ですので、個別の記事への適用については、各記事のノートページでお願いします。--Aotake 2007年5月6日 (日) 06:56 (UTC)
整形ありがとうございます。個別のページでは拉致があかないからここで議論したいのです。一歩下がって見られる人の意見が必要です。私は一歩下がって話しているつもりですが、どうも聞き入れてもらえないので、見苦しいのは承知でここに延々と記述しました。日本語の中立的な観点には偏見(英語版ではBias)に関しての説明が抜けていますが、これに関しても適応できる偏見の塊のような、記事が書かれています。客観的に判断できる皆様の判断をお願いいたします。
因みに英語版の9/11においても可也biasに関して議論されました、またはされていますが、なにせ本家本元の利害関係が真剣に関与し現在の権力の関係する話ですので、平行線をたどっているようです。せめて、一外国の立場ではまともに判断されて欲しいものです。それとも日本もアメリカ従属なので諦めた方が良いでしょうか?--Shoon 2007年5月6日 (日) 14:40 (UTC)
Aotakeさんがおっしゃるように,このノートは個別の記事の方針違反を論議するにふさわしい場ではありません。適切な手段については,ヘルプに書かれているはずです。他の編集者の批判をされる前に,自らガイドラインを守るべきではないでしょうか。英語版も読んでおられるのなら,欠けている部分を訳出したり,方針に盛り込むべきことの提案をしたり,という形でノートに貢献されるのなら歓迎されるでしょう。方針を整備することが,記事の質の向上に役立つと考える編集者の方々が,このノートで方針のブラッシュアップのための議論をされているのです。個別の記事の善し悪しを論じ始めたら,その活動の妨げになると思いませんか?個別の記事に無関心な方はおられないでしょうが,議論の切り分けは必要です。--Isorhiza 2007年5月7日 (月) 09:56 (UTC)
確かに、本来ここで議論するものでもないと思い控えてきました。しかし、殆どの人が私が中立的な観点を持っていないとし、ここで言う中立的な観点をもっていない人達が横暴な行為を行い続けています。同じ偏った意見の人の存在する地方で問題が収拾できない場合、中央に持っていくのが常套だと思いここに載せました。取り敢えず上文を個別の項目に引き戻します。--Shoon 2007年5月7日 (月) 11:58 (UTC)

偏見とは[編集]

以下の英語版での==bias==が日本語の方針に抜けているので、和訳をここに記します。以下をたたき台にして充実させてください--Shoon 2007年5月7日 (月) 14:18 (UTC)

ここの部分だけ移入するよりも、上でも議論されているように全体的にアップデートした方がいいと思いますし、保護されているのでこのまま移入される可能性は低いと思いますが、Wikipediaの方針翻訳にいろいろ手を出している身として、ちょっと見過ごせないのですこし筆を入れてみます。あと、Wikipedia名前空間の文章は基本的にデスマス体で、なるべく親しみやすく、わかりやすくなるように書かれているようなので、よろしくお願いします。--Aotake 2007年5月8日 (火) 03:36 (UTC)

〈Shoonさん訳〉

中立的観点は、偏見の無い観点から表される必要がある。全ての編集者と典拠には偏見がある。偏見とは一般または特定における観念、通常ではある特定の観点または思想を好む観念における先入観の一つである。ある一方から影響を受けている人がいれば、もう一方が偏見であると言われる。例えば、ある主張の長所によってではなく、その人の予め持っている観念にそぐうかそぐわないかによって、ある主張真実であると受け入れられるかまたは受け入れられないかが先入観によって決まることがある。

偏見の種類を以下に列挙する。

〈Aotake訳〉

中立的観点の方針により、見解は、偏り(バイアス)なしに表されなければなりませんですが、全ての編集者と資料には偏りがあります偏りとは、先入観、または偏見のことで、通常は、ある特定の観点または思想を好むという意味の「偏見」を指します("A bias is a prejudice in a general or specific sense"のセンテンスはちょっとわかりにくいのですが、prejudiceの「先入観」という意味と「偏見に基づく嫌悪」という意味を言っているのかなと思います。)もしある人が自分のもっている偏見に左右されていれば、その人は「偏っている」と言えます偏りがあると、例えば、ある主張の説得力の強さによってではなく、その人の予め持っている考えにそぐうかそぐわないかによって、その主張が真実であると受け入れられるかまたは受け入れられないかが決まったりします。

偏りには次のようなものがあります

〈以下、Shoonさん訳とAotake訳を併記〉

階級
偏見は、ある社会階級を贔屓し、他方の社会または階級区分を無視する。-> ある社会階級をひいきする偏りや、社会または階級区分を無視するような偏り
営利目的
広告, 企業利益の為に政治的活動な報道または経営者の利益に有利になるような報告 -> 広告、企業へ利益誘導するような政治的活動を取り上げること、またはメディア経営者に有利になるような報道
民族 または 人種
人種差別国家主義宗教主義部族主義
地理的
ある国において行われている論議が、他の場所では別の支持で述べられている。-> 地理: ある議論が、異なる地域で違ったふうに論じられている時に、特定の一カ国において行われている議論の枠組みだけ取り上げる
国家主義
ある特定の国の利益や観点を好む -> ; 愛国: ある特定の国の利益や観点をひいきする
性別
性差別同性愛を含む ->性差別異性愛を規範とする考え方(heteronormativity)を含む
政治的
偏見は特定の政治団体や政策や候補者に対して賛成または反対する -> 特定の政治団体や政策、候補者に対して賛成または反対する偏り
宗教的
偏見は宗教、信仰や信条に対し賛成または反対する -> 宗教、信仰や信条に対し賛成または反対する偏り
扇情主義者
は普通よりも異例を好む。これは異例な記事を市場評価を上げるために誇張や歪曲や捏造する -> 通説よりも例外を大きく取り上げようとする。これ、誇張、曲解、市場評価を上げるために目立つニュースを流すことが含まれる
科学的
非科学的な理由付けのために、ある科学者または発明者または論理に有利になるようにする -> 非科学的な動機で、特定の科学者発明者または理論をひいきする
ありがとうございます。先入観と偏見の関係がprejudiceとbiasの関係であれば問題ないのですが、多少違うのでどうしようかと思いました。とにかく私は、アメリカ同時多発テロ事件アメリカ同時多発テロ事件陰謀説で行われている、ここにおける項目の性別以外は全て該当する、卑劣な偏見を何とかしていただきたいです。--Shoon 2007年5月8日 (火) 04:17 (UTC)
>ある議論が、異なる地域で違ったふうに論じられている時に、特定の一カ国において行われている議論の枠組みだけ取り上げる
この訳おかしくありませんか?「ある国で行われているある議論が、異なる地域で違ったふうに取り扱われている。」でよいと思います。
Frameはこの際「取り扱われている」で良いと思います。Frameを「でっち上げる」、「陥れる」と訳さなかった理由は、ちょっときつすぎる気がしたからです。そこで、ではなんだろうと思った時にあまり何も考えずに「枠組みだけ取り上げる」という馬鹿な訳を私がしてしまったから「枠組み」が残っているのでは無いですか?--Shoon 2007年5月8日 (火) 06:48 (UTC)
「『枠組みだけ取り上げる』という馬鹿な訳」をしたのは私なんですが、まあ、それはさておき、原文("describing a dispute as it is conducted in one country, when the dispute is framed differently elsewhere")のframeは単に「論じる」という意味でしょうからそのように訳しています。as it is conductedの訳に「枠組み」という日本語が出てきているのには、確かにframeに引きずられたのかもしれませんし、別に削ってもいいと思いますよ。ただ、ここの趣旨は、ある問題について、地理的に異なる見方がある時に、特定の地域で論じられている論旨だけ取り上げること(例えば領土問題で一方の主張のみを取り上げるようなこと)がbiasであるといってるわけですから、Shoonさんの訳だと、asとかdescribingが抜け落ちていて、どのへんが「偏り」なのか伝わらないと思いますが。--Aotake 2007年5月8日 (火) 08:03 (UTC)
Biasは「偏見」と訳すよりは、すべて「先入観」で統一した方が適切な翻訳になります。
念のため、周知しておきますが、
Shoon氏はアメリカ同時多発テロ事件アメリカ同時多発テロ事件陰謀説ワールドトレードセンターテルミット法爆破解体三重水素同位体などの項目を、「同時多発テロはアメリカの自作自演」という意味あいの文章に書き換えようとし、ほとんどすべての項目で編集合戦を起こしました。(各々のノートと履歴を参照)
またその過程で、様々な誹謗中傷罵倒を行い、自分の異なる意見には要出典テンプレートを張り、質問には質問を返し、都合の悪い注意は無視した結果、他の執筆者から総スカンを食らい、まわりから意見に耳を傾けてもらえなくなりました。
彼はこれらの行為を正当化する目的で、「中立的な観点」、「偏見」といった話をしていますので、あらかじめご注意ください。--211.2.73.20 2007年5月8日 (火) 11:09 (UTC)
馬鹿な訳は自分を責めているので、Aotakeさんを一切責めていませんのであしからず。asとかdescribingが抜け落ちている理由は、英語の順序だと、WHENが後に来るので、訳がくどくなるのでわざと抜いています。「ある議論を異なる地域では、違ったふうに取り扱われていのに、ある国ではその議論を、異なって記述されている。」の方が良いですか?
Biasを偏見とした理由は偏見を見てください。--Shoon 2007年5月8日 (火) 11:41 (UTC)
うーん。「地理」のところについては、私は自分の訳の方がわかりやすいように思うので、これに関しては他の方に判断を委ねます。
bias - prejudiceと偏見 - 先入観の対応ですが、biasは、辞書では inclination or prejudice for or against one person or group, especially in a way considered to be unfair (Oxford Dictionary of English); a : BENT, TENDENCY b : an inclination of temperament or outlook; especially : a personal and sometimes unreasoned judgment : PREJUDICE (Merriam-Webster) といったような定義が一般的だと思われ、好きなものをひいきするのも、気に入らないものを貶めるのもどちらもbiasですね。一方、prejudiceのほうは、preconceived opinion that is not based on reason or actual experience; dislike, hostility, or unjust behaviour formed on such a basis (OED); (1) : preconceived judgment or opinion (2) : an adverse opinion or leaning formed without just grounds or before sufficient knowledge; c : an irrational attitude of hostility directed against an individual, a group, a race, or their supposed characteristics (M-W)となっています。biasよりも、「無根拠」というニュアンスがより強く、また先入観に基づく嫌悪、差別までも含みえます(以上、いずれも関係しそうな定義だけを抜き出しています)。英語版NPOVで "A bias is a prejudice in a general or specific sense" といっているのは、この辺りの意味の揺れを表現しようとしていると思われますが、わかりやすい表現とは思えませんし、日本語版でまるのまま直訳する必要はないように思います。
一方、「偏見」は「かたよった見解。中正でない意見」(広辞苑)、「かたよった見方。ゆがめられた考え方・知識にもとづき、客観的根拠がないのに、特定の個人・集団などに対して抱く非好意的な意見や判断、またそれにともなう感情」(大辞林)となっており、「先入観」は「初めに知ったことによって作り上げられた固定的な観念や見解。それが自由な思考を妨げる場合にいう」(広辞苑)、「前もってつくられた固定的な観念。それが自由な思考を妨げるときにいう」となっています。『大辞林』の「偏見」の定義をみると、「無根拠」というニュアンスを含む点で、どちらかというと、biasが「先入観」に、prejudiceが「偏見」に対応するといった感はあります。一方で、 prejudice の "pre" すなわち preconceived のニュアンスは「先入観」の「先」に対応し、biasの inclination やbentといった「傾いている」ニュアンスは「偏見」の「偏」に対応するのでしょうから、難しいところです。また、いずれの語にも、biasの含む「偏愛、ひいき」といったニュアンスがほとんどない点にも注意するべきでしょう。小型の辞書を2つずつ比べただけですから充分に検討を尽したとはいえませんが、いずれにしても、それぞれ意味の揺れがあり、訳語の一対一の完全対応は無理なうえに、文脈によって意味するところがかわるので、柔軟に訳すしかないでしょう。--Aotake 2007年5月8日 (火) 13:21 (UTC)文言を追加。連続投稿すみません。--Aotake 2007年5月8日 (火) 13:31 (UTC)
異常の調査が確実なら、偏見における説明「Bias, Prejudice がある。前者は偏った見方、後者は先入観、予断といった意味が強い。」を直してほしいいです。私はたまたま英語が出来る理数系で、国語は不得意だったので、そういった細かいことはあまり気にならないので、任せます。
地理的の文の訳ですが、貴方の文章は、多分基本的に間違っていると思います。枠組みを抜いた文章を示してもらえませんか?私のこの文章の理解はこうです。「他の国ではあることについて全然違って話されているのに、ある一つの国だけがいかにもそれが全然違う見解で述べてられていて、それをいかにも正統であるかのごとく表記するという偏見である。」違いますか?
211.2.73.20という人がごちゃごちゃ言っていますが、彼の言うように殆どの人がこういった偏見をもって接しているのが良く表されていると思います。普通であれば荒らしとみなされるでしょうが、実際には多数決の原理でそうなっていません。テルミット法爆破解体三重水素、などの項目は「同時多発テロ」と深く関わっていて、説明文として充実させる必要がありました。それに別観点からの表記も中立的な観点に反するわけではないので、追加しました。別に文章を完全に書き換えようとしたわけではありません。そして、こういう偏見の塊の人達とほとんどすべての項目で編集合戦を起こすのは当たり前です。そして同位体は表のテンプレートを作っただけなので何についていっているのかさあぱり分かりません。(各々のノートと履歴を参照)
またその過程で、「陰謀論だ」というのも十分誹謗中傷罵倒であるのにそれを認識してないので、散々私に言い私はそれを売り言葉に買い言葉で返しただけです。自分の異なる意見には普通の人は要出典テンプレートを張りますよね。質問には質問を返したかどうかは、その都度違うのでなんとも言えませんが、都合の悪い注意は無視した覚えもありませんし、もしそいうことがあれば、抜けているところもあるでしょう。私は殆ど返事を書いており多くの項は私の文章で終わっているはずです。逆に、私への返事がもらえない方が多かったです。他の執筆者から総スカンの事をいっているのでしょうか?総スカンとか言っていますが、科学的な論議についていけないだけだと思います。それ以外は皆十分文句を言ってきていましたから。まわりから意見に耳を傾けてもらえなくなったのではなく理解できなかっただけなのでしょう。
私は、これらの行為を正当化する目的で、「中立的な観点」、「偏見」といった話をしていますので、よろしくお願いいたします。異常に見られるように偏見のない外部の人からの判断がないと埒が明きませんので、本当に頼みます。--Shoon 2007年5月8日 (火) 17:39 (UTC)
(インデント戻す)正直、「他の国ではあることについて全然違って話されているのに、ある一つの国だけがいかにもそれが全然違う見解で述べてられていて、それをいかにも正統であるかのごとく表記するという偏見である。」という文章をどうパラフレーズすれば「ある国において行われている論議が、他の場所では別の支持で述べられている」になるのか、私の乏しい語学力では分かりかねますが、前者で大体はいいのではないですか。「だけがいかにも」とかは余計だと思いますが。以下は人生の無駄のような気もしますが、私が正しいと思っている解釈が間違っていると批判されたままにおくのは性分が許さないので、いちおう英文を詳しくみておきましょう。 "describing a dispute" がbiasとS=C関係になっていますよね。ですから、文の中核は「議論を記述する(ことが地理的偏りである)」となるべきでしょう。ここが抜け落ちていては、元も子もないと思います。次に、 "as it is conducted in one country" ですが、この接続詞asは日本の英文法で「様態」というものにあたり、the wayに言い換えられる as でしょう。ですから「ある一国でその議論が行われているように」という意味になると考えます。ただこうしてしまうと「ある一国のみで行われているかのように」という意味にとられかねないので、議論の内容、論調、主張といったものを「議論の枠組み」と表現しましたが、不自然な日本語なのかもしれませんね。私には判断できませんが。 "when the dispute is framed differently elsewhere" の接続詞whenは「にも拘わらず」の意味ですね。「one country以外の場所で、異なる風に(異なる論旨で)論じられているにも拘わらず」という趣旨ですね。先に「時に」という訳語をあてましたが、「なのに」という趣旨がはっきり出ている方がいいかもしれません。以上を合せて、もう一度訳し直すと、「ある議論が、異なる地域で違ったふうに論じられているにも拘わらず、その議論について、特定の一カ国において行われている論旨だけ取り上げて記述する」とでもなるでしょうか。--Aotake 2007年5月9日 (水) 08:10 (UTC)
それなら良いと思います。他の国でFRAMEされているので、ある国ではFRAMEされていると書かれていないので、「論旨だけ」が気になりますけど。私もFRAMEがどういう意味で使われているのか良く分からないので、何ともいえません。地理的リンク先を見てみてみましたが、奥が深過ぎて取り敢えず保留にしておきます。Aotakeさんなら調べてしまいそうな気がしますが。「偏見」の項目にある記述も暇な時、断定的な記述の修正願います。--Shoon 2007年5月9日 (水) 13:22 (UTC)