陳太宗
陳太宗 | |
---|---|
陳朝 | |
初代皇帝 | |
国号 | 大越 |
王朝 | 陳朝 |
在位期間 | 1226年1月11日 - 1258年3月30日 |
都城 | 昇龍(現ハノイ) |
姓・諱 | 陳煚 |
尊号 |
統天御極隆功厚徳顕功佑順聖文神武孝元皇帝 → 顕尭聖寿太上皇帝 |
諡号 | 統天御極隆功茂徳顕和佑順神文聖武元孝皇帝 |
廟号 | 太宗 |
生年 |
建嘉8年6月16日 (1218年7月10日) |
没年 |
宝符5年4月1日 (1277年5月5日) |
父 | 陳承 |
母 | 黎氏 |
后妃 | 昭聖皇后、順天皇后李氏罃 |
陵墓 | 昭陵 |
元号 |
建中 1226年 - 1232年 天応政平 1232年 - 1251年 元豊 1251年 - 1258年 |
陳太宗(ちんたいそう、ベトナム語:Trần Thái Tông(チャン・タイ・トン)、1218年7月10日[1] - 1277年5月5日[2])は、陳朝の初代皇帝(在位1225年 - 1258年)。陳朝の実質的な創始者である陳守度の甥。太宗は廟号である。名は陳 煚(ベトナム語:Trần Cảnh / 陳煚)。兄に安生王陳柳がいる。
経歴
祖先は福建、もしくは桂林からの移住民である[3]。建嘉8年(1218年)、太宗は陳承の第2子として生まれる。母は黎氏。有道2年10月(1225年11月頃)に宮中に入内[4]。李朝の女帝の昭皇に見初められ、遊び友達となると、まもなく結婚した。同年12月12日(1226年1月11日)、陳守度や馮佐周の工作により、昭皇から禅譲され、わずか8歳で帝位に就くこととなった[5]。しかし、皇帝が幼年であることから、実際の政務は陳守度が執った。建中2年1月(1226年2月頃)、昭皇を后として立て、昭聖皇后と改めた[6]。
建中5年(1229年)、宋に使者を派遣し、安南国王に封ぜられる[7]。成人すると親政を開始し、科挙による有能な人材登用や諸制度の整備など、陳朝の土台を固める事に務めた。元豊7年(1257年)11月には兀良合台の率いるモンゴル軍が侵攻し、12月には紅河北岸の「平厲源」の地で蒙越両軍が衝突したが、太宗は自ら出陣した[8]。しかし、モンゴル軍が紅河を渡河すると、国都タンロン付近の瀘江口、さらに天幕口に撤退した。一時タンロンを占領されたが、間もなくモンゴル軍が撤退したため、ベトナム軍は追撃してこれを打ち破った[9]。
元豊8年(1258年)、長子の聖宗に譲位して太上皇となったが、引続き政治を執り行った[10]。同年、使者をモンゴルに派遣し、国交を開いた[11]。このときのベトナム君主は、日煚(太宗)の長子の「光昺」と記録されているが、光昺は太宗の別名であり[12]、モンゴルと戦った君主とは別人が位に就いた形をとり、国交を開いたとされる[13]。
モンゴルでクビライが即位すると、翌年の紹隆4年(1261年)に使者を派遣。三年一貢を申し入れ、元朝より「光昺」として安南国王に封ぜられた[14]。
治政の傍ら、禅を修行し、譲位後に修行に打ち込み、禅に関する著作も著した。
著書
- 『禅宗旨南』
- 『課虚』
脚注
- ^ 大越史記全書 本紀巻之五 陳紀 太宗皇帝 建嘉8年6月16日
- ^ 大越史記全書 本紀巻之五 陳紀 宝符5年4月朔
- ^ 桃木至朗 著「『ベトナム史』の確立」、池端雪浦ほか 編『東南アジア古代国家の成立と展開』 2巻、岩波書店〈岩波講座 東南アジア史〉、2001年7月、171頁。ISBN 4000110624。
- ^ 大越史記全書 本紀巻之四 李紀 昭皇 有道2年10月
- ^ 大越史記全書 本紀巻之五 陳紀 太宗皇帝 有道2年12月12日
- ^ 大越史記全書 本紀巻之五 陳紀 太宗皇帝 建中2年正月
- ^ 山本(1975年)、83ページ
- ^ 山本(1975年)、85ページ
- ^ 山本(1975年)、85-86ページ
- ^ 山本(1975年)、86ページ
- ^ 山本(1975年)、87ページ
- ^ 山本(1975年)、86ページ
- ^ 山本(1975年)、87ページ
- ^ 山本(1975年)、87-88ページ
参考文献
|
|