朴趾源
ぼくしげん 朴趾源 | |
---|---|
生誕 | 1737年 |
死没 | 1805年 |
職業 | 思想家 |
朴趾源 | |
---|---|
各種表記 | |
ハングル: | 박지원 |
漢字: | 朴趾源 |
発音: | パク・チウォン |
日本語読み: | ぼくしげん |
ローマ字: | Park Ji-won |
朴趾源(ぼくしげん、ハングル: 박지원、1737年 - 1805年)は、李氏朝鮮時代の思想家。字は仲美。号は燕巌[1]。
人物像
朝鮮王朝の英祖13年3月5日にソウルの一流両班の子弟として誕生した。保守化した空論の朝鮮儒教を批判した二大朝鮮実学者である。[2] 著書『両班伝』において、朝鮮の儒者や知識人や両班を痛烈に風刺する。しかし、両班や知識人それ自体を否定しているのではないという[3]。
清による侵略戦争の丙子胡乱と丁卯胡乱によって、李氏朝鮮では反清感情が渦巻いているなか、清の先進文物を積極的に取り入れることを提唱した[4]。
いまの人々が、まことに攘夷がしたいなら、なによりもまず中華の遺法をことごとく学び、まず、わが民衆の愚純を変革することだ。農耕、養蚕、製陶、冶金から工芸、商業までことごとく学びとる。人が十回やるなら己は百回やって、まず、わが人民に利益を与え、わが人民に棍棒を作らせて相手の堅甲と利兵を撻たせることが可能になってこそはじめて、中国は観るべきところはないといってよい。わたしは下等の士である。わたしはこう言いたい。壮観は瓦礫にある。壮観は糞壌にあると[5]。
このように朴趾源は、清から見習おうという思想を唱える。当時の朝鮮人は、清に頭を下げながらも、内心では小中華思想からくる野蛮人と侮蔑しており、両班は「朝鮮こそが明の正統継承者」と認識していたが、清を野蛮人とみなす風潮では生まれることができない思想を朴趾源が生み出したのは、朴趾源自身が両班から疎外されていたからだという[6]。しかし、清から先進文物を取り入れることを提唱したが、性理学に反する思想と侮蔑・誹謗され、受け入れてもらえなかったという[7]。
著作に紀行文の『熱河日記』[8]がある。朝鮮から中国・日本へ渡った人々による紀行文の主要なものを集めた『海行摠載』の中でも評価は高く、金台俊は著書『朝鮮漢文史学』(1931年)において、申維翰の『海游録』とともに「朝鮮紀行文学の双璧」とした[9]。
実学思想の文学作品
儒者批判や医者批判や巫女批判で両班の馬鹿にして笑いものにした作品がある。短編小説として以下の執筆した。[10]
- 『両班伝』
- 『許生伝』
- 『虎叱』
脚注
- ^ 『ブリタニカ国際大百科事典』【朴趾源】
- ^ <知の攻略「韓国」作品社56頁
- ^ 岸本美緒・宮嶋博史 1998, p. 339
- ^ KBSワールドラジオ 2011
- ^ 岸本美緒・宮嶋博史 1998, p. 340
- ^ ハンギョレ 2009
- ^ KBSワールドラジオ 2011
- ^ 日本語訳は『熱河日記 朝鮮知識人の中国紀行』(今村与志雄訳、平凡社東洋文庫 全2巻、1978年)
- ^ 申維翰・姜在彦 1974, p. 327
- ^ <知の攻略「韓国」作品社57頁
参考文献
- 老論-植民史観 事大主義と連結された人脈. ハンギョレ. (2009-07-08) 2016年11月2日閲覧。
- 朴趾源. KBSワールドラジオ. (2011-03-18) 2016年11月2日閲覧。
- 岸本美緒・宮嶋博史『明清と李朝の時代 「世界の歴史12」』中央公論社、1998年。ISBN 978-4124034127。p337-p342
- 申維翰・姜在彦(訳注)『海游録 : 朝鮮通信使の日本紀行』平凡社〈東洋文庫〉、1974年 。