打刀
打刀(うちがたな)は、太刀に引き続いて、室町時代後期から武士の主流となった日本刀の一種。打刀は主に徒戦(かちいくさ:徒歩で行う戦闘)用に作られた刀剣であり、通常は太刀とは逆に刃を上に向けて帯刀する。通常、室町時代以降は「刀」というと打刀を指す場合が多い。
歴史
打刀の原型・初見は、12世紀初頭の鎌倉時代の短刀の一種である「刺刀(さすが)」であると言われており、当時は上位の騎馬武者に付き従う下位の徒歩武者が薙刀と共に装備する短刀であった。南北朝時代に長大な大太刀などの刀剣が流行するに従い刺刀も長大化し、室町時代には打刀になったとされる[1][2]。南北朝時代あたりまでは短刀と同じく平造りが主流だったが、それ以降は太刀と同じ鎬造りとなる。
武士の刀の主流がそれまでの太刀から打刀に移行していったのは、戦場における戦闘形態が弓を使った武士同士の騎射戦中心から大量動員された足軽の大集団による徒歩戦に移行していったからであり、本格的に主流となったのは応仁の乱以降の室町時代後期や戦国時代であった[3]。この時代には大量に動員された徒歩の足軽が槍や火縄銃で武装したため、戦場においては薙刀が廃れて槍に取って代わり、弓と火縄銃が混用されるようになり、太刀より軽量で携行しやすい打刀が主流になっていった。
そして安土桃山時代の豊臣政権の刀狩りを経て、江戸時代の徳川幕府の誕生により、完全に打刀と脇差の大小2本差の同時携帯は武士の正装(身分標識)となる。これにより、それまでは理念上の武士の象徴は弓箭だったが、刀剣が武士の象徴となった。
このような戦闘形態の変化や、時の政権の長さ規制を受けて、室町時代以降、古来の長い太刀の茎(なかご)を切り詰めて根元部の刃を潰し落として打刀に転用したり、同様の方法で打刀の長さを短縮する磨上げ(すりあげ)が頻繁に行われた。この結果、銘や目釘穴が改めて穿たれ茎の見栄えが悪くなったり銘が途切れたり磨り減って消えかけた古刀が続出した。先祖代々伝家の宝刀及び重代の名刀等は一部許容されたが、柄を少し長くして刃を磨り上げずにそのまま茎として柄中に埋め磨り上げたように見せかける、蔵や壁・柱あるいは土中などに防・耐腐食処理(蝋などの脂で覆い固め、白鞘ごと油紙で包んで菰などに何重にも巻く)をして一時的に隠すなどの手段で磨上げを回避することもあった。なお、切先側から詰めて新たに切っ先を作る形で磨り上げたものを「薩摩上げ(さつまあげ)」と呼ぶ。
刃と銘の向き
太刀は刃を下へ向けて、鞘に付けられている足緒(あしお)と呼ばれる部品に太刀緒(たちお)を通して腰に吊り下げる。これを佩(は)くという。これに対し打刀は、いつでも即座に鞘から抜いて切りつけられるようにするため腰の帯に刃を上向きに差す。これを帯刀する(帯びる)という。そのため打刀の銘は左に切られており、飾るときも刃を上にして銘がある「指表(さしおもて)」を見せるようにする。ただし、室町時代後期から江戸時代初期にかけては、反太刀や天神差しといって太刀と同様に刃を下に帯刀することもあった。乗馬の際には刀の鞘の鐺(こじり)が馬に当たると馬が言うことを聞かなくなる恐れがあることから、天神差しにするという習慣が残されていた。
太刀と打刀(刀)の分かりやすい簡単な見分け方として、刃を上にして左腰に差したとき茎の銘が外向きに刻まれている場合は、おおむね打刀である。しかし、幕末期の新々刀時代の日本刀はこれに準じないものもあり、備中国青江派の刀工のように裏銘を切る場合があるなど、例外も多々あるため、必ずこうなっているというわけではない。由緒のある刀は、磨上げ(すりあげ)て体配的には「打刀」となっている太刀でも、「式正の刀」(太刀)であることを示すために、後世の鑑定家により、「太刀銘」が切ってあることが多い(長谷部国重:圧切(へし切長谷部)、正宗:中務(なかつかさ)正宗、いずれも国宝)。復古的な精神の漲っていた、幕末期の新々刀の「太刀銘」も同様の理由による。
使用法
打刀は太刀と短刀の中間の様式を持つ刀剣であり、太刀と同じく「打つ」という機能を持った斬撃主体の刀剣である。反りは「京反り」といって、刀身中央でもっとも反った形で、腰に直接帯びたときに抜きやすい反り方である。長さも、成人男性の腕の長さに合わせたものであり、やはり抜きやすいように工夫されている。
日常では中世の日本人は激高しやすく、護身用の武器としてだけでなく些細なトラブルの解決のためにも使用され、都市部では刃傷沙汰は珍しくなかった[4]。 合戦では(特に雑兵が所持していた打刀は粗悪品であったため)手足を狙って切りつけることが推奨されていた[5]。
刃長
刃渡りは室町時代前半までは約40cmから50cmであり、室町時代後半からは60cm(約2尺)以上の長寸のものが現れだした[6]。それと同時に打刀と短めの打刀(脇差)の同時携帯が身分・階層問わず流行し、帯刀が身分不問で成人男子の象徴になっていった[7]。室町時代が平均2尺3寸5分程度、太閤刀狩以降は2尺3寸3分以下(それ以前に作られたものは磨上げられた)であった。
江戸時代には持ち主によって許可される長さが変わり、帯刀許可者及び武芸者・剣術修行者は徳川家光の代までは2尺3寸以下・徳川家綱以降は2尺2寸8分以下となった。それ以外の階級が許可を得て帯刀する場合(逮捕吏、神職及び祭祀職・神人・祭祀時の扮装役、虚無僧、大関以上の力士、芸能・大道芸興行者、公家貴族衆、槍持ちなど武家奉公人、その他武官や警備職など特別身分帯刀許可など)2尺2寸3分迄とされた。天下泰平の世である江戸期の作刀には美観を旨とした刀が流行したため焼き戻し処理がさほどされず硬度はあるが粘りがないために水試しや堅物試しといった荒試しで折れた事例もある。
幕末期になると、江戸中期の美観を旨とした刀よりも実用的で丈夫な尊王攘夷派の志士の間で勤皇刀や勤王拵と呼ばれる3尺前後で反りが少ない長寸の打刀が流行し、佐幕派も対抗として長大な刀を使うようになった。美術刀剣商の間では作刀時期から新々刀、太刀のような大振りでより粘りのある作りであることから復古刀と分類される。
重さは700 - 1,400g前後である。
江戸時代の所持規制
基本的には前節で挙げた者が所持を許可されていたが、その他の者も届け出があれば長さ同程度以下の身の細い脇差の携行を旅行時の護身用として許可された(後述)。また、天和3年(1683年)までは、百姓・町人などでも刀を差すことができた。それ以降催事の際は刃挽きされ刃の付いていない刀や模擬刀、鉄刀(≒兜割)と呼ばれる打刀を模した捕具等を差すことが許可された。
ただしそれぞれの藩によって規制の内容は異なり、各藩ごとに規定がそれぞれ違う。たとえば薩摩藩では薩摩太刀(さつまたち)といわれる全長約115cm - 120cm程度の大太刀(野太刀)が多く使用された。その他にも大関や横綱など上位の力士は体格により見合った細太刀なものを、芸能・大道芸興行者、祭事及び催事の扮装役は見栄えの観点から2尺3寸を越える大脇差なものを差せるよう時代に見合った風紀上の判断により町奉行所など役所から帯刀許可が下りた。八王子千人同心は頑健で無骨な長さ2尺5寸 - 2尺6寸前後の打刀の帯刀が許可されていた。 また参勤交代以降街道が整備され富士講やお伊勢参りといった物見遊山(旅行)が庶民にも流行し、江戸中期以降出稼ぎによる江戸・大阪など都市への地方出身者流入による里帰りも激増したため、それらの道中で獣除けや盗賊除けなどの護身用に上記以下の長さである大脇差までの帯刀が旅行人に許可された。
現存する打刀の例
- 刀 無銘(伝元重)朱漆打刀拵
徳川家康の次男である結城秀康の指料(さしりょう)として越前松平家に伝来したものである。刀身は14世紀の鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した備前国の長船派の元重の作と伝えられている。元重は同派の兼光や長義とは別系統の刀工と考えられている。元は太刀であったが後世に磨上げられて寸法が短くなり無銘となっている。刀と拵が共に重要文化財で東京国立博物館が所蔵する。刃長68.5cm。拵えはしゅうるしのうちがたなこしらえと読む。
脚注
ギャラリー
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打刀の彫物
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刃文 17世紀
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茎(なかご)17世紀
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長い打刀と短い脇差の大小の拵えの柄の部分
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黒蝋色塗鞘大小拵[鐔、縁頭、目貫]銘 石黒政美作、18世紀か19世紀
[小柄、笄]銘 柳川直政作、18世紀、江戸時代、東京富士美術館