宮騒動

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宮騒動(みやそうどう)は、鎌倉時代寛元4年(1246年)閏4月に起きた、北条(名越)光時の反乱未遂および前将軍藤原頼経鎌倉から追放された事件。年号を取って寛元の乱(かんげんのらん)、寛元の政変(かんげんのせいへん)ともいう。また、首謀者より名越の乱(なごえのらん)、名越の変(なごえのへん)とも呼ばれる[1]北条氏内部の主導権争いと北条氏に反感を抱き将軍権力の浮揚を図る御家人たちの不満が背景にあり、この事件により第5代執権北条時頼の権力が確立され、得宗(北条家嫡流)の専制権力への道を開いた。

宮騒動と称される理由は『鎌倉年代記裏書』で「宮騒動」と号すとあるためだが、「宮」を用いる由来は不明[2]。事件の背後にいた九条頼経は九条家の一族で「宮」と称されることはあり得ず、結果的にこれより6年後に摂家将軍の追放と親王将軍の誕生へとつながったためではないかとされる[2]

背景

仁治3年(1242年)、第3代執権・北条泰時が死去する。嫡子時氏、次子時実はすでに死去していたため、時氏の子・経時が執権職を嗣ぐこととなったが、すでにこの頃、北条家は庶流が多く分立しており、経時の継承に対して不満を持つ者も少なくなかった。特に庶長子であった泰時に対し正室腹の次弟・北条朝時を祖とする名越家は北条氏嫡流(のち得宗と呼ばれる)への対抗心が強く、名越光時らは不満を募らせていた。

一方、幼少時に鎌倉へ下向し、執権北条家の傀儡となっていた4代将軍・藤原頼経も成年に達し、自ら政権を握る意志を持ち、反執権勢力の糾合を図っていた。これに危険を感じた経時は、寛元2年(1244年)に頼経を将軍の座から降ろし、子の頼嗣を擁立した。しかし、頼経はその後も鎌倉に留まり、「大殿」と称されてなおも幕府内に勢力を持ち続けた。

寛元3年(1245年)4月6日、死の間際の泰時の強い意向で出家に追い込まれていた北条朝時が死去している。一方、6月以降『吾妻鏡』や『平戸記』などの公家日記には経時の健康状態に関する記述が現れ始める。

寛元4年(1246年)に入ると、1月に後嵯峨天皇が後深草天皇に譲位して、治天の君として院政を開始する。その際、太閤九条道家(藤原頼経は道家の三男)は不仲であった次男の二条良実を関白から降ろして寵愛する四男の一条実経を新天皇の摂政にした。その直後に鎌倉では経時の病状が悪化し、3月23日、弟・時頼に執権職を譲った直後、閏4月1日に23歳の若さで死去する。

事件の経緯

3月14日、北条(名越)朝時の後継者であった名越光時は、父の遺命であるとして信濃国善光寺に一族郎党を集めて法要を行っている。この時には9日後に執権を退く経時の病状悪化を巡って何らかの協議が行われた可能性が高い[3]

経時の死を好機と見た光時は、頼経や頼経側近の評定衆後藤基綱千葉秀胤三善康持ら反執権派御家人と連携し、時頼打倒を画策するが、時頼方が機先を制した。閏4月18日深夜より3夜連続して、鎌倉市中に甲冑をつけた武士が群集し、流言が乱れ飛ぶ事件が起きる。これが頼経・光時側を混乱に陥れた。5月24日深夜に起きた地震の翌朝25日、時頼は鎌倉と外部の連絡を遮断した。これらの動きにより光時らは陰謀の発覚を悟り、弟時幸とともに出家し、降伏した。

翌日、時頼の私邸に北条政村北条実時安達義景が集まり、頼経派御家人たちへの対応を協議したが、去就を曖昧にしていた大豪族三浦泰村の動きがまだ不明であったため、速やかな処断を行うことはできなかった。6月1日、名越時幸は自害し、6日泰村の弟・家村が時頼私邸を訪れ、恭順の意志を示したため、時頼方の勝利が確定した。

頼経側近の後藤基綱・千葉秀胤・三善康持らは罷免、また光時も所領を没収され伊豆国へ配流となった。7月には頼経も鎌倉を追放され、京都へ戻り、鎌倉幕府内における時頼の権力が確立された。翌年の宝治合戦三浦氏を滅ぼし、時頼の専制体制は完成する。ただし、名越氏は光時の弟時章を中心に依然として北条氏内部における反得宗勢力として残り、時頼の死後の二月騒動で再び敵対することとなる。

脚注

  1. ^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年、318・365頁。
  2. ^ a b 高橋慎一朗『北条時頼』吉川弘文館〈人物叢書〉、2013年、53頁。 
  3. ^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年、320頁。

関連項目