アルヴィド・ヤンソンス
アルヴィド・ヤンソンス Arvid Jansons | |
---|---|
生誕 | 1914年10月24日 |
出身地 |
ロシア帝国 ラトビア リエパーヤ |
死没 |
1984年11月21日(70歳没) イギリス マンチェスター |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 指揮者 |
アルヴィド・ヤンソンス(ラトヴィア語Arvīds Jansons, 英語: Arvid Jansons、1914年10月24日 - 1984年11月21日)は、ラトヴィアの指揮者。
人物・来歴
1914年、ロシア帝国領クールラントのリバウ(現在のラトヴィア共和国リエパーヤ)生まれ。1929年から1935年までリエパーヤ音楽院のヴァイオリン科で学んだ。1931年からは地元のリエパーヤ歌劇場とリエパーヤ交響楽団のヴァイオリン奏者としても活動した。1940年にはこのリエパーヤ歌劇場でフレッド・レイモンドの喜歌劇「青い仮面」を指揮して指揮者としてもデビューしている。
しかし同年には勉学のためリガへ移り、1940年から1945年までリガ音楽院(現在のヤーゼプス・メディンシュ記念ラトヴィア音楽院)でヴァイオリンと作曲を学んだ。ヴァイオリン奏者としては、1940年からラトビア国立歌劇場で演奏していた。同時に指揮についてはレオ・ブレッヒから指導を受けており、1944年にはラトビア国立歌劇場の指揮者となり(1944~1952年)、指揮者としての第一歩を踏み出した。その後、1946年には全ソ連若手指揮者コンクールで第2位に入り、同年には6年間働いていたラトヴィアラジオ放送交響楽団を率いることになった。
1952年よりエフゲニー・ムラヴィンスキーのアシスタントとしてムラヴィンスキー音楽監督のもと、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団の指揮者として、またレニングラード音楽院の教授として活躍した。しばしばレニングラード・フィルハーモニー交響楽団とともに、あるいは単身来日し、在京オーケストラを頻繁に指揮するなど、日本におけるクラシック音楽の普及に尽力し、東京交響楽団から永久名誉指揮者の称号を贈られる。1984年、マンチェスターに没する。
受賞
- 1946年:全ソ連若手指揮者コンクール(Всесоюзный смотр-конкурс молодых дирижёров)で第2位 (レニングラード)
- 1951年:スターリン賞 (A. F. スクルテ(А. П. Скулте)のオペラ«Сакта свободы» の指揮に対して)
家族
- 子:マリス・ヤンソンス - 指揮者