貞享暦

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貞享暦。1729享保14)年版。国立科学博物館の展示。

貞享暦(じょうきょうれき)は、かつて日本で使われていた太陰太陽暦暦法である。初めて日本人渋川春海の手によって編纂された和暦である。

以下、和暦の日付は旧暦表示、西暦の日付はグレゴリオ暦表示である。

使用期間

貞享2年1月1日1685年2月4日)に宣明暦から改暦され、宝暦4年12月30日1755年[1]2月10日)までの70年間使用された。

宝暦5年1月1日(1755年2月11日)、宝暦暦に改暦される。

概要

貞享暦は、渋川春海の手によって完成したもので、貞享元年10月29日1684年12月5日)に採用が決定した。

渋川は、中国授時暦を元に自ら観測して求めた日本と中国との里差(経度差)を加味して、日本独自の暦法を完成させ、大和暦(やまとれき)と命名した。当時使われていた宣明暦は、800年以上もの長きにわたって使われたため誤差が蓄積し、実際の天行よりも2日先行していた。また、各地で独自に宣明暦に基づいた暦(民間暦)が発行され、それらの中には日付にずれが生じているものもあり、暦の全国統一をする必要があった。朝廷は、で使われていた大統暦に改暦する予定であり、貞享元年3月3日(1684年4月17日)には、大統暦改暦の詔まで出されていたが、渋川が採用を願い出た大和暦を採用することとし、当時の元号から「貞享暦」と命名した。渋川はこの功により、幕府から新設の天文方に任命された。

なお、800年ぶりの改暦は当時話題となり、井原西鶴は『』、近松門左衛門は『賢女手習並新暦』を執筆している。

脚註

  1. ^ 宝暦4年12月30日(貞享暦)は、グレゴリオ暦では年が明けて「1755年」となる。

関連項目