和田義郎
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和田 義郎(わだ よしろう、1840年(天保11年) - 1892年(明治25年)1月17日)は、明治時代の慶應義塾の教育者[1]。
生涯
紀州藩士和田与惣右衛門正甫の子として生まれる。幼名は常太郎または安太郎。のちに義郎または与四郎、郁之允と名乗る[2]。
1864年(元治元年)同藩江川氏の長女喜佐と結婚し[2]、1866年(慶応2年)、藩の留学生として鎌田栄吉らと共に鉄砲洲の福澤諭吉の塾で学ぶ[3]。一時帰省ののち1869年(明治2年)に再び上京して慶應義塾へ入学修業し、卒業後の1871年(明治4年)同塾の英語教師となる[2]。翌年学制発布があり、福澤諭吉の勧めで1874年(明治7年)に三田の自宅で年少の塾生を預かり、和田塾を開く。1880年(明治13年)頃に幼稚舎と改称し、死去するまで舎長を務めた[3]。
幼稚舎以外では1874年に三田演説会、1880年に交詢社の創設に加わった[3]。関口流柔術の達人でもあった[2]。
脚注
参考文献
- 慶應義塾 『慶應義塾百年史』 上巻、1958年
- 福澤諭吉事典編集委員会 『福澤諭吉事典』 慶應義塾大学出版会、2010年
外部リンク